第28話「魔力飽和地帯と『システムの免疫機構』」

 天空の箱舟(アーク・ワン)が、世界の禁足地『魔力飽和地帯(マナ・フラッド)』へと航路を取ってから、一週間が経過した。


 船は順調に飛行を続けている。ファクトリーでは、イヴの新しいボディのパーツが、3Dプリンタのように自動で組み上げられていく。ビオスフィアでは、リリアが育てた虹光花(アイリス)が咲き誇り、船のエネルギーは着実に回復していた。平穏な、希望に満ちた日々だった。


 だが、その平穏は、目的地が近づくにつれて、少しずつ侵食されていく。


「タクミさん! 船体が、断続的に揺れています!」


 ブリッジで、リリアが悲鳴に近い声を上げた。


 俺は艦長席で、メインコンソールのログを睨みつける。画面には、夥しい数の警告メッセージが、滝のように流れていた。


[Warning]: 外部魔素濃度が、許容限界を突破。船体各部に、軽微なデータ汚染を確認。

[Warning]: ナビゲーションシステムに、原因不明の座標ズレが発生。

[Warning]: 自動防御システムが、正体不明の敵性反応を多数検知。


「……来たか。マナ・フラッドの影響だ」


 そこは、世界のあらゆる法則が歪む、混沌の海域。アーク・ワンほどの強力な船でさえ、その異常な環境からは逃れられない。船体が軋みを上げ、照明が不気味に明滅する。


「このままじゃ、船が保たない。リリア、ビオスフィアに行ってくれ!  虹光花のエネルギーを、船の防御フィールドに回すんだ!」

「はい!」


 リリアがブリッジを飛び出していく。


 俺は、自分の仕事に取り掛かった。この船の『システム』を守ることだ。


 俺はスマホをコンソールに接続し、【プログラミング】アプリを起動。船全体のシステムを保護するための、新しいパッチを書き始めた。


(外部からのジャンクデータが多すぎる。フィルタリング機能を強化して、異常なデータは全てシャットアウトする。座標ズレは、天体の位置情報を基準に、強制的に補正をかけ続ける……!)


 SEだった頃の、深夜の障害対応を思い出す。次から次へと発生するエラーを、一つ一つ、地道に潰していく。だが、マナ・フラッドから流れ込む『バグ』の量は、俺の想像を遥かに超えていた。


 その、時だった。


 船全体を、これまでで最も大きな衝撃が襲った。


 キィィィィィン!!


 けたたましい警報音が鳴り響く。メインスクリーンに、船外カメラの映像が強制的に映し出された。


 そこにいたのは、生物ではなかった。


 それは、この世界の『バグ』そのものが、形を成したものだった。


 無数の、壊れたポリゴンの破片が集まってできた、巨大な竜巻。その中心には、エラーコードを撒き散らす、赤黒いコアが脈動している。


[Danger!]: 超巨大級バグ・アグリゲーター『レギオン』を検知。

[Danger!]: 当オブジェクトは、システムの免疫機構により、自動生成された『アンチウィルス・プログラム』です。

[Danger!]: 侵入者『アーク・ワン』を、排除対象として認識しました。


「アンチウィルス……だと!?」


 つまり、こいつは、この混沌とした魔境が、自らの秩序を保つために生み出した、究極の自衛システム。そして、安定したシステムを持つアーク・ワンは、こいつらにとって、排除すべき『異物』なのだ。


 レギオンが、その竜巻状の体を、アーク・ワンに叩きつけてくる。船の防御フィールドが、悲鳴のような音を立てて削られていく。


「くそっ、このままじゃ……!」


 俺はファクトリーを遠隔操作し、迎撃用のミサイルを発射させるが、物理的な攻撃は、データとバグの集合体であるレギオンにはほとんど効果がない。ミサイルは、その体を虚しくすり抜けていくだけだった。


 リリアが、ビオスフィアから通信を入れてくる。


『タクミさん! 防御フィールドが、もう……!』


「分かってる!」


 どうする? どうすれば、あの『バグの塊』を倒せる?

 破壊ではない。攻撃ではない。バグを倒すのは、いつだって……。


「……『修正』だ」


 俺は、レギオンの動きを、必死で観察した。無秩序に見えるその動きの中に、俺は、一つの法則性を見つけ出した。レギオンは、アーク・ワンから漏れ出す、安定した魔力の流れに、強く引き寄せられている。


 そうだ。こいつは、秩序を憎み、破壊する、ただのアンチウィルスなのだ。


 ならば――。


 俺は、ブリッジのコンソールを操作し、アーク・ワンの機能の一つを、強制的に起動させた。


 船体の前方に搭載された、巨大な集光レンズ。本来は、太陽光エネルギーを集めるためのものだ。


「リリア! ビオスフィアの全エネルギーを、一点に! 船首の集光レンズに、ありったけの『聖なる力』を送ってくれ!」

『えっ!? そ、そんなことをしたら、船のエネルギーが……!』

「いいからやれ! 俺を信じろ!」


 リリアは一瞬ためらったが、すぐに覚悟を決めた声で『はい!』と答えた。


 ビオスフィアで咲き誇っていた虹光花の輝きが、一斉に失われていく。その全てのエネルギーが、光の奔流となって、船首のレンズへと注ぎ込まれていった。


 レンズが、まばゆい黄金色の光を放ち始める。


 それは、攻撃用のレーザーではない。


 リリアの聖なる力で満たされた、純粋な『秩序』と『修復』の光。


 いわば、究極の『ワクチンプログラム』だ。


 レギオンが、その強すぎる『秩序』の光に気づき、猛烈な勢いでレンズへと殺到してくる。


「来いよ、バグ野郎……!」


 俺は、エネルギー充填が100%になるのを待ち、そして、解き放った。


「お前ごと、この世界の歪みを、『デバッグ』してやる!!」


 アーク・ワンから放たれた黄金の光は、レーザーのようにレギオンを貫くのではなく、まるで太陽が闇を溶かすように、その体を優しく包み込んでいった。


 断末魔の叫びは、なかった。


 赤黒いコアは、その憎しみを癒されるように、ゆっくりと白く、清浄な光へと変わっていく。そして、竜巻を構成していた無数のバグの破片もまた、次々と正常なデータへと『修正』され、大気の中に溶けていった。


 嵐が、去った。


 船内の警報音が、すべて止まる。


 俺は、艦長席に深く倒れ込み、荒い息を繰り返した。船のエネルギーは、残り1%。まさに、紙一重の勝利だった。


 だが、俺たちは、マナ・フラッドの洗礼を乗り越えたのだ。


 ブリッジの窓の向こう。


 そこには、雷鳴が轟き、七色の魔力が渦を巻く、世界の終末のような、しかし、どこか神々しい光景が広がっていた。


『魔力飽和地帯』。


 俺たちは、ついに、禁断の海域へと、足を踏み入れた。


 イヴを復活させるための、最後の希望が、あの嵐の先にある。

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