巫女は春を夢見る 七.
暴風に舞いあがった砂礫が目を直撃し、由良が顔を歪めて片手を頭にかざす。額から流れた血が、乾いて頬にまでこびりついていた。折れて鋭利な切断面の現れた枝が、その腕にぶつかり、刺さった。裂けた肌から血が流れ落ちる。拳よりも大きな石が軽々と舞い、血だらけの由良をさらに痛めつける。
(由良、来るな! 主様、止めてくれ! 由良が死んでしまう! 指でも足でもなんでもいいから……動け!)
ハルは意識を総動員して、末端の神経に命令する。
(動け! 由良を逃がせ!)
「ハル、聞こえる?」
由良が、全身に傷を負いながら近づいてくる。笑みさえ浮かべて、やわらかい声で。
ハルにはそれが恐怖でしかなかった。みずから死に近づこうとは。
(聞こえるが、いいから帰れ!)
ハルが届かない叫び声を上げるのと、由良が名寄せの弓を構えるのは同時だった。
矢が、ハルの心臓にぴたりと向く。
「――意味を、ずっと考えてた」
ハルが息をのむ前で、由良が続けた。
「主様は俺の前で最初に顕現されたとき『縛った』とお怒りだった。その意味を考え続けてた。……弓矢の役割を知って、やっとわかったよ。主様は代々の巫女から名を取りあげてきたんだ」
弓矢は暴風で今にも吹き飛ばされそうだ。だが、由良は余裕の笑みを崩さない。
「ということは、逆を願うなら主様から真の名を返してもらえばいいんだ。ま、それが難しい。巫女たちは、名を取りあげられたことすら気づいてなかっただろうから」
理由は簡単だ。この島から出られず、真の名があると教えてくれる者がいないから。
「気づいたとしても、真の名をそうたやすく主様が返してくれるとも思えない。だから、ちょっと手荒になるけど許して。瀬良に襲われる危険を考えて、フユに持ち去られる前に矢じりをすり替えておいてよかったよ」
由良は迷いのない仕草でさらに一歩ハルに近づく。
「こっちが、本物の矢だ」
ハルの混乱はいや増した。ハルが瀬良に矢を向けたときは、矢じりはたしかに偽物だった。いつのまに本物にすり替えたのか、由良は本物の矢でハルを射ようとしているのだ。
「…………――良! そんなことをすればおまえが……」
ようやく声が表に出て、ハルは肩で息をした。水の底に沈んでいたのが、やっと水面から顔を出せた心地に似ている。ハルは息も絶え絶えだった。
全身を覆う分厚い膜がやけに生々しくうごめき、ハルは急な嫌悪感にたまらずその場で嘔吐した。胃液をすべて吐ききる。だが嫌悪感はなくならず、ハルは不吉な予感に背を押されながらどうにか首を下に傾け、目を見開いた。
真っ白なうろこに覆われた大蛇が、ハルの体に絡みついていた。
大蛇はハルの視線に気づくと、のっそりと鎌首をもたげる。曲島に咲く椿の花よりも、血よりもなお赤い目が、ハルを縫い止める。
「主様……!?」
瀬良がいたときは、大蛇はまだ現れていなかったはずだ。ハルは分厚い膜で外から隔てられていたが、瀬良の視線の先はハルであって大蛇ではなかった。荒ぶる神がその体を現したのは、瀬良が逃げ、由良が弓矢を構えてからだ。
とうとう外に出たというのか。こうなれば、ハルが喰われるのは時間の問題だった。
(由良はどうする気だ!?)
大蛇は悠然とハルの体を這う。その胴体はあまりに長く、大蛇が動くのにともなって内蔵が引きずりだされていくのに似た感覚に襲われる。尾は見あたらない。
真っ白な頭から続く胴は、先へいけばいくほど色が薄く、透けていく。消えたのではなく、ハルと一体化しているのだ。
肌を撫でる、ぬるりとした感触に怖気が全身を襲う。
大蛇は丸太のごとき体をくねらせると、胴の下のほうをハルに巻きつけたまま、頭のほうを伸ばして由良へ襲いかかった。弓矢の狙いがぶれ、由良が大蛇に抵抗する。
「……っ、と! これでも俺、主様にはひと言もふた言も言いたいことがあるんだけど」
由良は余裕ぶったが、大蛇に首を絞められて無事ですむはずがない。
ハルはかろうじて動くようになった手を大蛇の胴体に回して引っ張ろうとしたが、てんでうまくいかない。大蛇のせせら笑いが空気の震えとなって伝わった。
「由良、駄目…………だ、わたしはいい、だからわたしから……逃げ……ろ……!」
「なーに言ってんの」
由良はハルを笑い飛ばしたが、次の瞬間には細くうめき声を上げた。大丈夫だと言わんばかりに笑顔を向けられても、ハルの心臓は凍りついた。
普段だったら、呆れたことだろう。しかし今は、ただただ恐ろしい。
「やめ……、わたしはともかく主様を射る……な……! すべて破壊されるぞ……!」
「主様に仇なすつもりはないよ、ハル。ゆえがやったようにするだけだから」
大蛇が絡みつき、ほとんど覆われた顔から、切れ長の涼やかな目だけが強い光を宿してハルを見る。しかしハルの頭は混乱したままで、由良の意図がつかめない。
ますます焦るハルと反対に、由良は落ち着いている。けれど、首を圧迫されて苦しそうで見ていられない。
「ハルは俺を……まがい物でも写しでもないと言ったけど。ハルも、鎮めの巫女様でも主様の器でもないんだ。大丈夫、主様によれば呼び名でもそれなりに『縛った』らしいから、勝算はある。最初に欺しておいて言うことじゃないけど……任せて」
「なにを言いたい……!?」
大蛇に締めあげられながらも、由良は決して弓矢を離さない。何度も、何度も、こちらに向けて矢を構えようとする。
「頼むから、逃げてくれ……!」
「いいから。――ハルも、ハルとして生きればいいよ」
ふたたびの言葉は、まっすぐにハルの胸を貫いた。手が止まった。
自分を自分たらしめるための「楔くさび」。
それはハル自身がこれまでに形作り、築きあげてきたもの。感じてきたもの。そして今すでに、ハルのなかにあるもの。
曲島で舞の最中に見た空の広がり。山菜を求めて視線を落とした先の、名もなき草を濡らす朝露の輝き。ひとりきりだったが、ハルにはそれらを感じる心があった。
島を出て視界が広がれば、出会ったのは君代たち村の人間や、菫を初めとした都の人々、神護り。抱える思いは違っても、ハルがこれまでに出会ったすべてのものが次々に頭に浮かぶ。ハルを満たすものたち。
ハルは、荒ぶる神が依る器だけの存在ではなかった。
「お前に名を呼ばれたときから、とうにそのつもりだったが!?」
「……ぷっ、はは。なら、心配するまでもないね」
由良が笑ったのが、大蛇の咆哮を縫うようにハルに届いた。
荒ぶる神に支配されるのでもなく、民の犠牲になるのでもなく。自分を偽ることもなく。
ただ、自分はこう在りたいと望んで、手に入れてきたもの。悩んで出した答え。そのすべてが、荒ぶる神とは異なるハルという一個の人間の証だった。
「っと、さすがにこれ以上は……っ! いくよ」
今にも首をへし折られる寸前の一瞬の隙を突き、由良がふたたび弓矢を構える。
猛烈な風が起こり、大蛇が――荒ぶる神が躍りあがる。
(ならば、わたしの真実は)
放たれた矢が、ハルに迫る。
(わたしには元々、取り上げられるべき真の名などなかった。由良がくれたこの名だけが、わたしが得た唯一の真実。ならば)
「わたしは……わたしの真の名は、ハルだ」
風がぴたりと止む。曲島を静寂が満たす。
空を覆い尽くしていた雲が、かき消える。
やがてしらじらと明けゆく空に、春告鳥の鳴き声が軽やかに響き渡った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます