巫女は春を夢見る 六.
妙に静かだな、とハルは怪訝に思った。
おかしい。瀬良に矢を向け、神護りに囲まれたはずなのに、誰ひとり気配がしない。皆、どこへ消えたのか。
しかも視界が悪い。分厚く濁った膜に覆われた風なのだ。ハルはまばたきを繰り返し、向こう側をよく見ようと目を凝らす。
(なんだこれは……! おい、主様! 止めてくれ!)
目はたしかに濁った膜の向こうを見ている。木々がなぎ倒され、島の川が氾濫し、砂が巻き上げられ――そのなかを神護りが逃げ惑う。
しかし、どれもが等しくハルから遠いのだ。
彼らの悲鳴も、うなりを上げて倒れる木の音も、すべてがくぐもって聞こえる。そのせいで、現実味が感じられない。あえて言うなら、水の中から空を見あげた感じに近いのではないか。ハルは指一本動かせない。動かせるのは、まぶただけ。
(どうなってる……!?)
自身の呼吸音は近いが、向こうで起きている出来事が遠い。
荒ぶる神が顕現した結果、ハルの存在が中に閉じこめられたのだった。だから目が見えても、体が動かないのだ。声を出すこともできない。
だが意識を保ったまま、なにひとつできずに閉じこめられたのは初めてであった。
(主様! やめてくれ! 皆が死んでしまう)
声の限り叫んだが、それはハル自身の内側に留まり、外に出ていかない。ハルの意識は底に沈められ、表層に届かなかった。
神護りたちが、ようやく対岸と繋がりそうな神続きの道を我先にと逃げる。しかし大波が神続きの道をのみこみ、彼らは立ち往生した。小舟は、とうに波間に消えている。
(主様! 頼むからやめてくれ! 鎮まってくれ!)
ハルはぐっと手足に力を入れる。だが蝋ろうで固められたかのごとくぴくりともしない。
(せめて本物の名寄せの弓矢があれば……)
喰われたくはない。だが少なくとも、代替わりを行えばこの厄災は終わらせられる。瀬良たちは助かる。瀬良を助ける気があるのかと問われれば、うなずけるものではない。しかし、見捨てられるものでもない。
それに荒ぶる神が暴れるままにすれば、水穂国全土に災厄が広まる恐れがある。
(弓矢はどこだ……っ!?)
唯一自由になる視線だけをめぐらせ、ハルは必死で周囲を探る。吹き荒れる暴風はハルを中心にして起きているらしく、ハルの周りだけは奇妙に凪いでいた。
名寄せの弓矢は足下に落ちていた。
ハルは、ままならない手足に意識を集中させる。碇いかりをつけられたのかと思うほど、重い。あるいは土壁を指一本で崩そうとするかのようだ。
こめかみに汗が流れる。奥歯を噛みしめ、ハルは屈もうとする。骨が軋み、今にも砕けそうだった。骨ごと握り潰されそうな痛みに気が遠くなりかけるのを、必死で足下に手を伸ばす。外からは、その光景は滑稽に見えただろう。その場にただしゃがむだけのことができず、ハルは全身を震わせる。
しかし誰ひとり、その様子に気づいた者はいなかった。皆、曲島から逃げることしか頭になかったのである。
(なんとか……頼む!)
骨がみしりと悲鳴を上げるのも構わず、ハルはなおも手を伸ばす。
ところが、何者かが足下の矢をかっ攫った。
(は……!? ちょっ、返せ!)
消えた矢を前に、ハルは愕然とした。ところがその何者かはすぐに戻ってくる。
「みゃあ!」
(フユ……! おい、さっきのやつ返せ……っ)
黒猫は金色の目を不遜そうに細めてハルを見つめると、ハルの目の前で悠々と弓を咥えた。一歩も動けないでいるハルを尻目に、すたすたと暴風の中へ戻っていく。
(フユ! 嘘だろう……?)
身ひとつで、どうやって荒ぶる神を止めればいいのか。忙しなく思考を働かせるが、今度はフユではなく瀬良がにじり寄ってくるのが目に入り、ハルはわれに返った。
「兄上には僕がいなければ……代替わりに失敗すれば、兄上が責められる……だから巫女様、あなたにはここで死んでいただかなければなりません」
瀬良が猛烈な風の中、じりじりと這い進む。強靭な精神力、いや執念だった。その手にハルが由良に返してもらったはずの小刀がきらめく。
(代替わりできないからわたしを殺す? それこそ、ゆえが赤子を殺したときのように災厄が止まらなくなるぞ!)
しかしハルは微動だにできない。ただ刃の先が迫るのを覚悟したとき。
「ハル」
細い、糸のような声を耳が捉えた。
ハルを囲う分厚い膜が、わずかに揺らめいた。ハルは目を見開く。しかし同様に驚きをにじませた声は、ハルのものではなかった。
「由良!? なぜお前が、ここに」
瀬良は振りあげた小太刀ごと、由良に手首をひねられていた。
「そんな顔しないでよ、瀬良。俺だって驚いてるんだからさ、洞窟では俺を突き落としてくれてありがとう」
いつもきれいに縛られていた由良の髪が、暴風に乱れる。濁った膜の向こう、ふたりの顔が等しくうかがえた。驚いていると言うわりに、由良の口調は普段と変わらない。
ハルのほうが驚きのあまり頭が働かない。
「どうやって来たんです……!?」
「知りたい? ハルなら素直に知りたいと言うところだよ。ねえハル?」
分厚い膜がまた揺らめく。
由良はハルの姿にも動じずに小さく笑い、瀬良に向き直る。だが、瀬良を見た由良の目は笑っていなかった。
「洞窟を出るはずが突き落とされたときには、万事休すと思ったよ。けどま、あんたがしたのには気づいてた。ハルが俺のところに来たとき、ついてきた監視役……そいつが怪しかったからね。ちょっと『お話』したら、あっさりあんたの名前が出たよ。だからあらかじめ、良峰兄に協力を頼んだんだ。あんたとともに舟に乗ったのは、俺たちの息がかかった神護りばかりだよ」
ハルは今になって合点がいった。神護りたちはハルに弓矢を構えはしたが、なぜか瀬良を取り押さえるように動いていたのだ。すべて由良の策だったのか。
「それに、これは思わぬ副産物。あの洞窟が崩落したおかげで、あそこから曲島に続く地下道に気づけたから、そこだけは感謝しておこうかな。それにしても、この小刀はハルの護身用に買ったはずなんだけど?」
これまで耳にしたことのない冷ややかな声だった。
(……そうか、だからか!)
由良が突如として現れたように見えたのは、その地下道を通ったからなのだ。
「良峰兄にはすべて話してある。ここはこっちで片をつけるから、さっさと退場してくれない?」
「まがいになにができるものですか。兄上でなければ……」
「その『兄上』が俺に任せるって言ったんだよ。わかった? よくもこれまで俺を殺そうとしてくれたね」
由良は瀬良からあっけなく武器を取りあげ、別の神護りに引き渡した。瀬良たちが地下道に消えると、ハルに近づく。
フユが名寄せの弓矢を咥えて戻り、由良はそれを受け取った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます