神依る巫女 二.
頬を撫でる冷たい土の感触と、獣の遠吠えに引き戻されるように、少女はゆっくりと瞼を上げた。
われに返ったときには、少女は木々が
馬も見当たらなかった。おそらく少女を振り落として駆け去ったのだろう。
手足は冷たい氷水に浸したあとのように麻痺まひしていたが、逃げなければならないということだけははっきりしていた。少女は山道を分け入った。
乾いた冷気は冬の最中ほど鋭くないものの、少女の身にことさら染みる。
腰の高さまで茂った草が行く手を阻み、少女の細い体を鞭のごとく打つ。
足元は朽ちた葉と拳大の石、折れた枝だらけで、ともすれば転びそうだ。袴はかまの裾が低木から突き出た枝に引っかかり、少女は強引に袴を引っ張る。衣が裂ける嫌な音がしたが、歩き続けた。
さきほどまで体を支配していた荒ぶる神の気配は、いつのまにか遠のいている。深い眠りに沈んだのかもしれなかった。
狼と思しき獣の遠吠えが夜気を震わせる。やがて男の声が響いた。
「巫女様を保護しろ! 一刻の猶予もならん! 主様をお鎮めいただかなければ……!」
「巫女様を早く曲島へ戻せ! 野放しにすれば災いが起こるぞ!」
追っ手の神護りに違いなかった。
行き交う松明の数やひとの気配から察するに、両手の指でも足りないほどの人数だ。
見つかれば、そのときこそ二度と島を出られなくなる。
少女は低木の陰に身をひそめて男たちをやり過ごしてから、適当な大きさの枯れ枝を拾い、藪をかき分けて進む。腹の虫が鳴った。
貴重な神饌を置いてきたのを惜しく思ったが、そのとき藪やぶの中を金色に輝く光が横切った。その光が消えると同時に、藪が擦れる音が立つ。
少女は金色の光の去った方向へ足を踏み入れた。また金色の光がちらつく。
(
また腹が空腹を訴える。それに兎を追えば、獣道や水場を見つけられる可能性もある。
少女は神護りを警戒しつつ光を追う。藪のあいだから、すらりとした四肢とまっすぐ立った尻尾が覗いた。
三角の耳がピンと立っている。金の目が、鋭く少女を見据えていた。
「いたぞ、あそこだ!」
低い声が静寂を破り、少女は身をすくめた。空気が切り裂かれる音が少女の耳横をかすめる。
目の端をよぎった矢の向かう先に気づくより先に、少女は地面を蹴った。
「痛っ……!」
獣を抱えこむと同時に、右足に煮え立つような熱が生じる。
熱は頭まで突き抜ける痛みをともない、獣を腕に
背後からの「しっ」という制止の声と同時に、少女は腕の中の獣ごと黒い腕に抱えこまれた。
「静かに。ついてきて。――あいつらに見つかりたくないならね」
少女が連れてこられたのは、ひとがふたり入れる程度の奥行きの、小さなほら穴だった。
山の斜面に開いた入口はうまい具合に岩や木で覆い隠され、じっと目を凝らしたところで穴があるとは思いもしない。
折しも降り始めた雨のおかげで、追っ手の声も聞こえない。逆にいえば少女たちの声も漏れる心配もなさそうだった。
「こういう場所を見つけるのは得意なんだよね、俺」
ひょうひょうとした口調で言いつつ、男は入口を岩で塞ぐと、少女をふり返る。少女は
「何者だ?」
「なにって、猫だよ。見たことない?」
男の涼しげな声に呼応するように、彼の足元から獣が飛びだす。少女はあとずさった。
全身を黒い毛で覆われた四つ足の動物だった。大きさは両手に載せられるくらい。三角の耳がぴんと尖っている。金色の光はその動物の目だった。
「わたしが尋ねたのはおまえだ。……しかしこれは猫というのか。初めて見た」
「そうなんだ? 名前はフユ、メスだよ」
フユと呼ばれた猫が少女の前までくると、たし、たし、と前足で少女の足の甲を叩く。思いがけずその仕草に頬がゆるんだが、足首のすぐ上に刺さった矢が目に入ったとたん
「痛い……っ、で、おまえは何者だ」
「ま、自己紹介は矢傷の手当てをしながらね。はい、まずは座って」
男はのんびりとした様子でフユの頭を撫でたがそっぽを向かれ、苦笑しながら火の支度を始めた。洞穴を使い慣れているのか、あっというまに枯れ木を集めてきて火を
男は細身だった。細い眉は緩やかな曲線を描いて、面差しを穏やかに見せている。一方、顎の線は鋭く、薄い唇もきりりと引きしまっていた。
歳は二十代前半くらいだろうか。胸下まで伸びた髪をひとつに結わえ、片側にさらりと流しているのが涼しげだ。少女に大した知識はないものの、ただの村人という雰囲気ではない。
しかしどうにもその雰囲気と口調がちぐはぐな印象だった。少女は警戒しつつも、火の前に座った。矢がどこにも当たらないよう、右足の膝を立てる。
明るくなった洞穴を見あげれば、ごつごつとした岩肌が目に入る。地面には、フユのものではない獣の足跡があった。古い跡だから、ここをねぐらにしていたのかもしれない。地面は雨の空気を吸ってか、しっとりとしている。
男はみじんもためらいを見せずに少女から矢を抜くと、自身の袍の片袖を引きちぎってきつく巻く。
「助かった、礼を言う。これでまた歩ける」
「もう歩く気? まだ血が完全に止まってないし、追っ手もうようよしてると思うけど」
追っ手。男は呆れた風に笑いながらも、そう、はっきりと言った。少女は痛む足をこらえて腰を浮かせる。
「答えろ。おまえは何者だ? あいつらの仲間か」
男は少女を見あげ、笑ってフユを少女に差し出した。
意図がわからないまま、少女はフユを抱きとる。命の存在を感じるぬくもりにほっとした。
「相棒を助けてくれてありがとね。俺は、
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