水穂国事変 神依る巫女は春を夢見る

白瀬あお

一章 神依る巫女

神依る巫女 一.

 そそくさと去る神護かみまもりたちを呼び止めようとした少女は、彼らの会話にただならぬ気配を感じて足を止めた。


「――当代のしずめの巫女様はいよいよ潮時やもしれん。次の名寄せを始める時期がきたか」


 月に一度の神事が終わったばかりだった。白髪のまじった初老のほうが、年若いほうへ声をひそめ、ふたりが馬を引く足を早める。

 この島と水穂国みずほのくに本土を月に一度だけ繋ぐ白い砂の道が消える前に、帰らなければならないからかもしれない。しかしその様子は、さながら少女から一刻も早く逃げるかのようだった。

 それは少女が、荒ぶる神を降ろす「鎮めの巫女」だからなのか。それとも「潮時」だからなのか。


「潮時とはなんだ!?」


 少女は朱色あけいろはかまの裾をからげ小走りで追いつくと、さきほど神に捧げる食事である神饌しんせんを運んできた馬の後ろ足を蹴りあげた。馬のいななきが響き渡り、神護りがぎょっとしてふり返る。


「今の意味を答えろ! 潮時とは、わたしは……どうなるんだ!?」


 少女は腰下までの濡羽ぬれば色の髪をふり乱し、強い意志が宿る目をさらに輝かせ神護りに詰め寄った。青年が神気に当てられたかのごとくか細い悲鳴を上げる。


「次、と言ったな!? わたしはここを出られるのか!?」


 抑えきれない期待に少女は声を裏返らせる。その日が来るのをどれほど願ったことか。

 しかし、年若の男は震えて首を振るばかりだった。代わりにもうひとりが、怯えを押さえつけるように白髪のまじった髪を撫でつけて進み出る。


「巫女様はこの国の安寧のため、主ぬし様に選ばれた御方。そのような尊い御方は、下々の地に下りずともよいのです。お務めの最後まで主様とともにあられることこそ、なによりの誉れでありましょう」

「わたしはこの五年間、この島にひとりきりだった! もう……いいだろう?」


 少女は拳を硬く握りしめた。腹の底から、さまざまな感情が溶岩のように噴出する。爪は肉に食いこみ、血の筋が浮き出た。こめかみがひくつく。少女は白衣に手を入れ、その拳を神護りに向けて振りあげた。


「一日も欠かさず山に登った! この国のために主様に舞を納め、祈りを捧げた! 務めが終わるのに、なぜ広い大地を見ることすら叶わぬ!?」


 玉を連ねた首飾りが初老の男の額に当たり、地面に翡翠ひすいの玉が散らばる。首飾りは神事の際に捧げられたばかりの供物のひとつだった。

 老爺は痛みにも顔色ひとつ変えず玉のひとつを拾いあげ、少女に握らせた。


「これらは、巫女様の十七の祝いでございます。お心が落ち着かれましたら、ごゆるりとご覧ください」


 初老の男が一礼して背を向け、若者もおどおどしながらそれにならう。


「選ばれたいと願ったことなどなかった! わたしは、お前たちの犠牲にはならん!」


 引き絞るように言うが早いか、少女は去っていく馬のうしろ足をさらに強く蹴りあげた。さお立ちになった馬が暴れ、若者が手綱に引かれてよろめく。

 少女は間髪いれずその前に回りこみ、彼が腰にいた太刀たちを抜き放った。太刀の先を神護りに向けたまま後退する。


「巫女様、なにを……太刀をお納めください!」


 じりじりと少女に近づくが、神護りは対応を考えあぐねる風だった。少女の内にいる荒ぶる神に傷をつけるのを恐れているのだ。

 少女は返事をせず、かたわらの馬に命じる。


「伏してわたしを乗せろ」


 たじろぐ神護りをよそに、暴れていた馬が瞬時におとなしくなる。少女の身の内に依る荒ぶる神の気配が、馬をも従わせていた。

 少女は馬が伏すと同時にあぶみのない、荷を乗せるためのくらにまたがる。


「わたしはもう、ひとりはごめんだ! 行け!」


 馬が胴を起こし、海に出現した砂の道を狂ったように駆けだす。蹴散らした砂が海にのみこまれていく。

 波飛沫は容赦なく馬と少女に振りかかったが、少女は対岸の本土だけを見据える。


「主様が、主様が……! 島をお出になった、国が乱れるぞ……!」


 天を突くような神護りの悲鳴は、もはや少女の耳に届かない。

 少女はただひたすら島を出たいと、そのささやかな願いだけを胸に生きてきたのだから。




 少女は疾駆しっくする馬にしがみつき、荒い息を繰り返す。なぜ、こんなことになったのか。これまでの孤独な日々が、脳裏を駆け巡る。

 少女は、荒ぶる神の生けるよりましだった。

 一時的に神を降ろす存在ではない。荒ぶる神は、少女の身の内に眠っていた。

 ゆえに少女は、曲島まがりのしまと呼ばれる島にひとりで住んでいた。

 曲島はその全体が、神域となっている。

 島の周囲は浜辺を除き、すべて切り立った崖に囲まれている。加えて周囲の海は海流が複雑に入り組んでおり、船でたどり着くのはほぼ不可能。

 浜辺の奥、山道に繋がる道には鳥居が立ち、巫女である少女以外の者の立ち入りを拒む。さほど広くはない島は、どこも潮の匂いが色濃く立ち上る。

 住処は、浜辺近くにあるき大きく切り出された岩の下。

 山の湧き水で身を清め、喉を潤し、衣の洗濯をする。食料は月に一度の神事で、神饌と称して神護りが運んでくる。あとは、山に入って山菜や木の実などを採ってしのぐ。殺生は禁じられている。

 その島で、少女は毎日、島唯一の山に登り荒ぶる神に舞を奉納していた。


(思えば、今日の舞を捧げたときからなにかがおかしかった)


 いつもは寸分の狂いなく着地するはずの舞。それが今日に限って、拳ひとつ分もぶれてしまったのだ。

 あれが、少女に敷かれた盤上から自らの意志で駒をずらした、最初の反逆だったかもしれなかった。

 そのとき、腹の奥で靄もやとも霧ともつかないものがうごめいた。さきほどの神事とおなじだった。


『我らが尊き、鎮めの巫女様、どうぞ主様にお納めくださいませ』


 神事では神護りが少女に頭を垂れ、浜辺に数多の供物を並べていった。夢心地を誘う手触りの布の数々や、翡翠に瑪瑙めのう、珊瑚さんごなどでできたつややかな玉、繊細な草花が描かれた金銅細工。米や酒、干し魚や干し肉など。

 それらを、少女はまばたきひとつできないまま見ていた。荒ぶる神が顕現したためだった。

 今また同様に頭の中が大きな手で握られ、乱暴にかき回される。手や足の指先まで、目に見えない塊が雪崩なだれていく。身の内で、虫が翅をすり合わせるのに似た音がする。それが荒ぶる神の言葉なのだと気づくのに時間はかからなかった。

 だが、なにを言おうとしているのかはつかめない。

 頭は煮えるように熱く、鼓動は鼓膜を突き破らんばかりになる。全身の血は、少女が生命活動を維持する対象ではなくなったとでもいわんばかりに、温度を失う。およそ人間の者とは異なる、大いなる気配。

 馬にしがみつく力もついえようとしていた。少女は馬上で嘔吐した。吐瀉としゃ物は馬のたてがみを伝い、異臭を放つ。

 かすみ始めた視界に、水穂国の本土が映る。白い砂の道はほとんど消え、馬は半狂乱で浅瀬を暴れながら広い大地へ疾駆する。

 少女の意識の糸は、それを最後に途切れた。

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