第44話 覚醒Ⅲ
階段を降りるたび、空気がひとつ深く沈んでいく。
雨の気配も、咆哮も、もう届かない。
ただ、地下の静寂だけが、脈の音にまとわりついていた。
壁を伝う掌が、冷たい雫に触れた。
指先が石の角を撫で、ざらついた感触が皮膚に張り付く。
壁には等間隔に燭台が置かれ、儚い光が辺りを照らす。
薬草と血と鉄が混ざった匂い――それが地下に息づいていた。
この階段を下りるのは二度目だ。
あの時の俺はただの戦士だった。
今は違う。
俺は“王”として、この地の闇に降りる。
――最初は、小さな種火だった。
スログから託された炎はあまりに弱く、
道なき道を、ただ必死に照らすことしかできなかった。
それでも俺は歩いた。
闇を恐れず、敵に臆さず、仲間と共に前へ進んだ。
だが、その火はマグ=ホルドに来てから大きく変わった。
オルク=ガルが、無名の戦士たちが――
命を賭して残した火種は、一つ一つは小さくとも、やがて集い、燃え広がり、俺の胸に宿った。
ザルグの死が、その焔を真に解き放ったのだ。
死は、終わりではない。
死は――“聖火”だ。
散った命が次の命を灯し、
燃え尽きた者の意志が、次の戦士を導く。
それが、オーク。
そして今、その炎は王を生む。
俺はもう、ためらわない。
オークを生かすためなら、どんな穢れも受け入れる。どんな苦痛も受け入れる。
右目に触れる。
そこに疼いていたのは、かつて
死と白骨の光景が、常に視界の端にちらつく。
それは呪いであり、そして制御しきれぬ力の印だった。
だが、奇妙なことに――
ザルグが死んでから、その黒点は消えた。
恐らく、俺なりに死の輪郭を掴んだからだろう。
視界が拓けた。
「……お戻りになられましたか、我が王」
その声は、闇の底から滲み出た。
燭火が揺れ、一人の老婆が現れる。
背を曲げ、顔を黒布に包んだ老将――“呪婦シャマルク”。
その瞳の奥には、狂気にも似た信仰の炎が宿っていた。
「――オークの未来を変えに来た」
彼女はその言葉に、ゆっくりと膝を折り、
額を石畳に擦りつけるほどに頭を垂れた。
「アナタにはその資格がある。
新たな魔王よ――戴冠を始めましょう」
俺は足を進める。
靴底が石を踏むたび、鈍い音が空洞に吸い込まれる。
前方――中央の台座に、黒鉄の祭壇があった。
その上に、戦の化身たる巨躯が静かに横たわっている。
……わかる。
皮膚の下から、燃え盛る様な覇気が伝わってくる。
死んでもなお、戦場を支配しているような存在感――大将軍ザガノス。
彼がオークの“骨格”だった。
人間に屈せず、百戦を超えてなお沈まず。
オークという種を「戦の概念」としてまで昇華させた大英雄。
彼がいなければ、オークという種はとうに絶えていた。
その遺骸が、今は沈黙のうちに在る。
俺は英雄の亡骸に視線を落とし、語りかけるように呟いた。
「――力こそが真理だ」
「……?」
静寂の中、シャマルクが小さく息を呑んだ。
俺の言葉が、冷たい空気に滲み出ていく。
その響きは、まるで神託のように重く、抗いがたいものだった。
「フッ……フフフ。そうだ力こそが真実だ。俺以外のオークがとうに気づいていたことに、今更ながらに気が付くとはな」
「……王?」
己の笑いが石壁に反響し、地下の空気が微かに震える。
それは自嘲に似た静かな笑みだった。
「力がなければ何も護れぬ。仲間は奪われ、誇りは踏みにじられる。大切な者が順に、手のひらから零れていく。……その痛みを、俺は嫌というほど知った」
胸の奥で、戦士たちの顔が一つ一つ点り直す。スログの静けさ、ザルグの覚悟、名もなき兵の叫び。死に、倒れ、散っていった者たちの想いが、脈となって胸を打つ。
「――ならばどうするか?」
低く問う声が響いた。
炎がざわめき、壁の影がざらりと蠢く。
その中で、俺の瞳だけが鋭く光を帯びた。
「単純な事だった。――俺自身が、奪う側に回ればいい」
シャマルクの肩が跳ねた。
老いた身体が本能的に後ずさり、燭火の光がその顔を不安に照らす。
「そ、それは……! 王よ、それはいくら何でも……あまりに傲慢に過ぎます……!」
俺はゆっくりと彼女を見た。
黄金の瞳が、深く、昏く、底知れぬ光を帯びる。
その視線に晒された瞬間、彼女は言葉を失った。
「何を今さら言う。俺たちは――オークだ。
力を信奉し、戦うことを是とし、勝利を誇りとする種族。
戦って奪うこと、それが“理”だ。それに恥を覚える必要など、どこにある?」
圧倒的な熱を孕む、凄絶な確信が響き渡る。
「ザガノス――お前を喰らい、王となる。
そしてオークの帝国を築く。
俺は“人類悪”として君臨する」
シャマルクの瞳が大きく見開かれた。
恐怖だけではなかった。
その奥に、覚悟への“畏れ”と、“敬意”が混ざっていた。
「王よ……その道の果てに、何があるのです……?」
「――世界平和」
俺は短く答えた。
もう選択を間違えない。
かつて共に戦い、倒れ、血を流した者たち。
彼らの魂を無駄にはしない。
覚悟は既に出来ていた。
「シャマルク、戴冠を始めろ」
シャマルクは狼狽しながらも杖を掲げ、古語を唱える。
低く唸る音が空洞に響き、
ザガノスを覆う透明な膜が砕け散った。
──── STATUS ────
【名前】 ザガノス
【種族】 オーク・ウォーロード
【二つ名】 《大将軍》
【称号】《闘将》/《戦鬼》/《覇者》
【スキル】《絶技》/《身体強化・極》
【ユニークスキル】《
└ 戦闘中の「因果律」を自動操作し、命中・回避・致命などの確率を強制的に有利に傾ける。
【武具】
《巨人の剣》 《戦覇者の鎧》
────
「……これが、大将軍の魂か」
指先が、ザガノスの胸板に触れる。
冷たく、だが力強い。
(……スログの時と同じだな)
脳裏に蘇る――あの夜、最初の仲間を葬った記憶。
温もりと血の重さ。
あれは終わりではなく、すべての始まりだった。
「……お前の武を継ぐ。ザガノス」
貫手を突き立てる。
肉が裂け、骨が砕け、掌に熱い血潮が宿る。
引き抜いた手の中――心臓。
命の象徴が脈打っているように感じた。
俺はそれを天に掲げ、獰猛に握り潰した。
血が滴り、顔を濡らす。
そして――そのまま飲み干した。
鉄の味が舌を灼き、意識が白く弾ける。
――瞬間、世界が反転した。
「……ッ!!ァア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!」
身体が強制的に作り変えられる感覚。
肉が膨張し、骨が軋み、血管が灼熱に爆ぜる。
脳が焼ける。心臓が別の鼓動を刻み始める。
地が鳴り、壁の燭火が吹き消された。
光も闇もない、ただ“力”だけが世界の形を成していた。
俺の内側で、何かが目覚める。
――それは、血の記憶。
オークという種の本能そのもの。
(……凄まじい力の奔流ッ!だが、喰らい尽くす!)
鐘の音が連続して脳裏に叩き込まれた。
――――――――――――――――――
《経験値を獲得しました》
《経験値を獲得しました》
《経験値を獲得しました》
《オーバーフローが発生しました》
【スキル】《絶技》/《身体強化・極》
【ユニークスキル】《
《進化条件を確認しました》
オーク・キング
《Error が発生しました》
《警告:系統外干渉を検出》
《進化パス:破損》
《█位権限から再定義を実行》
《称号〈黒〉を確認》
《魔王階層へ昇格を開始》
【進化再定義】オーク・キング → オーク・レギウス
【称号】《魔王》
《スキル統合中:戦域支配 ×
→【異界:
《
→【
《最終ステータスを更新します》
──── STATUS ────
【名 前】 バルド=ガル
【魔王】 オーク・レギウス
【称 号】《魔王》/《黒》/《人喰い》/《
【スキル】《絶技》/《身体強化・極》
【権能】
◆《
左眼:鷹の目 ― 上空から世界を見通す魔眼。
右眼:
◆《
現実を侵食する異界。
黒い太陽を天に掲げ、全ての光を終夜へと堕とす。
この領域では夜の眷属のステータスを二倍にし、因果率を有利に傾ける。
――――――――――――――――――
皮膚が裂け、再生する。
筋肉が膨張し、骨格が変形していく。
黒き穢れが体表を覆い、
左眼は黄金、右眼は蒼炎を灯す。
冥府の冷火が広間を飲み込み、天を焦がす。
世界が、俺の呼吸に合わせて膨張した。
死が俺を祝福し、生が俺を畏れた。
その瞬間、俺は悟った。
――この身は、“魔王”に至った。
「……王、よ……これは……何という……!」
シャマルクが杖を取り落とし、膝を折る。
恐怖が、畏怖に、そして崇拝に変わる。
俺は掌に穢れを集めた。
使い方は本能で分かる。
黒い光が渦を巻き、収縮された力が形を成す。
穢れと憎悪、戦士たちの無念――すべてを圧縮し、凝縮し、ひとつの形にする。
音もなく、闇が手の中で蠢いた。
「異界:
掌を天へ突き上げた。
――瞬間、黒い太陽が生まれ、天井を貫く。
それは物質ではない。
現実そのものを焦がす概念世界。
燭火が飲み込まれ、光が沈む。
天井をすり抜け、黒い輝きは地上へと溢れ出した。
光が反転し、世界が闇に飲み込まれていく。
重力が歪み、時間が軋む。
地上では兵たちが空を仰ぎ、
黒い日輪を見て震えた。
シャマルクは絶句したまま、ただ見上げていた。
その口から洩れたのは、祈りとも呻きともつかぬ声。
「……黒き太陽……真の夜が……」
俺はゆっくりと目を閉じ、
獰猛な嗤いとともに呟いた。
「……オークの時代が始まる」
闇が世界を覆い、夜が永久に定着した。
それは破滅であり、創世でもあった。
黒き太陽が天に在る限り、
この夜は――終わらない。
蒼炎が祭壇を包み、地を震わせる。
その中心で、新たな魔王――オーク・レギウスが誕生した。
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