第45話 建国宣言

 ――その日、世界は夜に呑まれた。


 昼を失った地上は、ざわめきと混乱に包まれ、人々は天を仰ぎ、ただ、言葉を失った。


 黒い太陽が、空の中央に在った。

 光を奪い、影を撒き、世界の秩序を裏返す異形の太陽。

 その輪郭を見た瞬間、誰もが“何か”が終わり、“何か”が始まったことを悟った。


 学者たちは机にかじりつき、震える手で星図を引き、「これは大規模な皆既日食だ」と口にした。

 神殿では神父たちが鐘を打ち鳴らし、「これは凶兆だ、神の怒りだ」と群衆に説いた。


 だが――オークだけは違った。


 彼らは空を見上げ、声を発さず、ただ震えた。


 肌が悟った。

 五感が悟った。

 骨が震え、血が熱を帯び、魂の奥底が理解した。


 ――王が、生まれた。


 祝福が始まった。

 血が教えてくれる。

 種そのものの記憶が、呼応した。

 そして、確信していた。


 ――あの黒き太陽の下に、真なる王が君臨したと。


 彼らは同時に立ち上がった。

 洞窟から、荒野から、

 奴隷坑道の闇から、雪原の隠れ里から――。


 各地で焚火が上がり、鬨の声が夜を裂く。

 鼓動が連なり、地が鳴った。

 それはもはや意思ではなく、本能の共鳴だった。


 誰かが命じたわけではない。

 だが、すべてのオークが同じ方角を見ていた。


 黒い太陽の昇る方角――マグ=ホルド。


 山を越え、海を渡り、大陸を横断し、

 史上最大の“オークの大移動”が始まった。


 老いた者も、幼き者も、

 鉱山奴隷も、失意の傭兵も、

 すべての命が、あの黒を目指して歩き出す。


 それは故郷への帰還だ。


 帰巣本能。

 血の記憶。

 そして、“種の根源”への回帰。


 彼らは知っていた。

 あの闇の下に、己らの未来があると。


 空では黒い太陽が、静かに脈動していた。

 その光の中で、人の文明は震え、

 亜人たちはざわめき、

 オークは、歩き始めた。


 やがて、世界は気づく。


 ――新たな“魔王”が誕生したことに。



 ♦


 ──人間側・ロダン視点──


 ――空気が、止まった。


 参謀本部の天幕に、不自然な沈黙が落ちた。蝋燭の炎が細く揺れ、油の焦げる匂いが重く漂う。外の喧騒は途絶え、風の一筋も感じられない。戦場ではあり得ないほどの“静けさ”だった。


 俺はその異様な静寂に気づきながらも、すぐには口を開けなかった。

 長年、戦場の空気を吸ってきた身だ。

 戦の前に訪れる“気配”は熟知しているつもりだ。

 だが――これは違う。

 生者の世界そのものが、何者かの手によって“歪められている”ような感覚だった。


 「……感じるか、ロダン」

 正面から、ゴドリックの低い声。

 老将の顔には焦りはない。

 ただ、静かに“理”を測る目をしていた。


 「ええ……風が、息をしていません」

 言葉にするだけで唇が冷える。

 舌先に、血の味がした。


 その瞬間――外で金属音が鳴り、兵の怒号が続いた。

 次いで、ざわめき。天幕の布を叩くように、無数の足音が広がる。


 「……嘘……だろ!?」

 「太陽が……闇に覆われた!」

 「……た、松明を持ってこい!」


 声が波のように押し寄せては消えていく。

 俺は反射的に立ち上がった。


 (……嫌な胸騒ぎだ)


 幕を開けた瞬間、混沌を目撃した。


 世界は夜に覆われていた。

 太陽は漆黒の円環と化し、辺縁に黄金の光を漏らしている。

 黒い雲が渦を巻き、地平は灰色に溶けていた。風が止まり、鳥も虫も鳴かない。


 ……音が死んでいた。


 兵たちは空を見上げ、誰もが息を飲んで立ち尽くす。


 「……夜だ……夜が来た……」


 その呟きが、伝染した。


 秩序が崩れたのは、次の瞬間だった。

 「神罰だ!」「魔術だ!」「逃げろ!」

 叫びが交錯し、兵が駆け出す。


 ある者は剣を抜いて空に斬りかかり、

 ある者は泣きながら祈り、

 またある者は狂った様に笑い始めた。


 恐怖が波のように陣を呑み、理が溶ける音が聞こえた。


 「落ち着けッ! 隊列を維持しろ!術式の効果範囲を調べるのが先だ!」


 俺の声が、虚空に吸い込まれる。

 誰の耳にも届かない。

 それでも俺は叫び続けた。

 ――自分の声で、自分の理性を繋ぎとめるために。


 ゴドリックが天幕を出てきた。

 

 「……ロダンの言う通りだ。原因究明が先じゃな。グリフォン隊を空に上げろ!」


 静かな声だった。

 だが恐怖を知らぬ将ではない。僅かに指先が震えるのを俺は見た。

 

 無事な伝令が駆け出し、号令が響く。

 直後、遠くの飛行場で咆哮が上がった。

 大空の支配者――グリフォンたちが暴れ、鞍を壊し、手綱を噛み切っている。一頭として空を翔ぼうとしない。羽毛が逆立ち、全身が恐怖に震えていた。


 「制御できませんッ!」

 「見ろ! グリフォンが……空を恐れている!」

 兵が叫んだ。


 (……幻獣が畏れる?……何が、起きている!?)


 風も、大地も、空も。

 世界そのものが、“別の理”に書き換えられ、拒んでいる。

 それは錯覚ではなく――確信だった。


 「ロダン殿!」

 背後から魔術師隊の長が駆けてきた。

 黒衣が土埃を巻き、顔は死人のように蒼白だ。


 「これは……魔術ではありません!」

 声が裏返る。

 「詠唱の残滓も、魔力の流れも検知できません! 空間が……変質しています!おそらく――これは、“異界”です!」


 その言葉に、周囲の喧噪が一瞬で消えた。

 兵も参謀も、皆が空を見上げる。

 異形の太陽が、ゆっくりと脈動していた。

 影が反転し、周囲の光が徐々に奪われていく。

 世界の時間が、僅かに“ずれて”いく。


 俺は息を呑んだ。

 背骨が凍える。


 (この圧力、この既視感……まさか!?)


 脳裏に過る。

 レーウェンの戦場。血と煙の中、全てを射抜くような冷めきった視線。


 理由も、理屈もない。だが、騎士としての勘が術者の正体を告げていた。


 俺は、天を見上げた。

 黒い太陽が、こちらを見返している気がした。


 ――黒鬼。


 その名が脳裏で点滅する。

 指先が冷たく、足元が遠のく。

 誰もまだ気づいていない。

 狂乱の声も、恐怖の呻きも、すべてが遠い。


 ただ一人、俺だけが理解していた。してしまった。


 (まさか奴は……至ったのか?……に!?)


 その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。


 夜が始まった。

 戦場を呑み込む、終わりなき夜が。



 ♦



 ──マグ=ホルド大広間──


 黒い太陽の真下。

 ここが、終夜の中心――世界の律が塗り替えられた地だった。


 黒鉄の玉座に座すは、魔王オーク・レギウス。

 頬杖をつき、沈黙したまま。

 ただ在るだけで、空気が変わる。

 その存在が、広間そのものを支配していた。


 身に纏うは、かつて大将軍ザガノスが残した“戦覇者の鎧”。

 星の鉄――隕鉄で鍛えられた鎧は、数え切れぬ戦傷を刻み、

 今も静かに息づいている。

 継ぎ目からは黒い穢れの焔が滲み、王の鼓動に合わせて脈打った。


 左眼は黄金、右眼は蒼。

 その双眸に射抜かれた者は、息を止めるしかなかった。


 玉座の右には“オルク=ガル”。

 黒鎧に歴戦の傷を刻む、王直属の戦士団。

 沈黙のまま、闘志だけが空気を震わせる。


 左手には三将――

 血斧アク―バ、炉鳴りムルガン、呪婦シャマルクが控える。

 それが、純然たる序列だった。

 

 王が頬杖を外す。

 そのわずかな動きで、万を超える戦士が同時に膝をつく。

 命じられたわけではない。

 ただ、それが当然の行為だった。


  「――オークの歴史とは、圧政の歴史である」


 その声は低く、だが余りにも重かった。

 黒鉄の玉座に座す王の言葉が、闇を震わせる。


 「我らは、生まれたその瞬間から奪われてきた。

  名を奪われ、土地を奪われ、子を奪われ、誇りを奪われた。

  我らの言葉は“咆哮”と蔑まれ、我らの信仰は“野蛮”と罵られた。

  人間どもは我々を“亜人”と称し、我らの屈辱こそが正義と宣告した!」


 空気が震えた。

 誰もが拳を握り、牙を噛み締める。

 その沈黙の奥に、千年の怨嗟が燃えていた。


 「だが――この夜をもって、我らは変わる。

  “奪われる者”の時代は終わった。

  これより先、我らは“取り戻す者”である!」


 黒日が一度、脈動する。


 「この血、この骨、この誇りをもって、

  我らは理不尽を断ち、虚偽の秩序を滅ぼす。

  異種征伐――あの愚かな思想を、根絶やしにせねばならぬ!」


 王の蒼炎が広間を照らし、すべての顔を照らした。


  「……鎖は俺が引き千切った!

  生きる権利は剣を取った者が獲得しなければならん!」


 押し殺していた怒号が、静かな震えとなって広間を満たす。


 「俺は宣言する!

  この地マグ=ホルドを首都とし、

  この夜をもって、我が国を“オルクザイン帝国”と名づける!」


 蒼炎が天へと立ち昇り、夜空が波打った。


 「“ザイン”――それは誓いの意。

  我らの帝国は、戦士達の勇気を称え、尊厳を奪われたすべての者たちを解き放つ、誓約の帝国である!」


 王は玉座の肘掛けに手を置き、ゆっくりと立ち上がった。

 黄金の左眼が閃き、蒼の右目が燃え盛る。

 声が天に響いた。


 「帝国臣民諸君!」


 その一言で、広間が息を呑む。


  「人間の時代は終わった。

  “異種征伐”などという欺瞞の理屈は、今ここで焼き尽くされる!


  奪われた歴史に終止符を打ち、

  奪うことで、我らの未来を拓け!

  生きるとは戦うこと――それが真理だ!」


 声は稲妻のように広間を駆け抜け、兵たちの胸を撃ち抜く。

 皆が立ち上がり、拳を掲げた。


 「太陽を掲げよ!

  誇りを掲げ、共に立て!

  我らの手で――新たな世界を築き上げようではないか!」


 最初の声は一人の戦士からだった。

 「――ザイン!」


 次いで、二人、十人、千人。

 やがて、万の声が重なった。


 「ザイン! ザイン! ザイン!」


 その咆哮が、黒い太陽を震わせた。

 バルドは天を仰ぎ、静かに右手を掲げる。


 「我が名は――

  オルクザイン帝国の皇帝にして、“オークの魔王”である!」


 歓声が爆ぜ、広間を包んだ。


 「この夜を以て、世界は変わる。

  我らが時代――“オークの時代”が始まる!」


 咆哮が大地を打ち、山を揺らした。

 

 「ザイン! ザイン! ザイン!」


 王は振り返らず、拳を高く掲げる戦士たちを背に、静かに外套を翻す。


 終夜の輪が再び鼓動を打つ。


 ――オルクザイン帝国誕生。

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