第34話 騎士、戦場にて再び

 ──人間側・ ロダン視点──


 兵たちの怒声と蹄音が満ちる戦野の一角。


 マグ=ホルド攻囲戦、6日目。


「……ようやく着いたかマグ=ホルド」


 俺は、そこに建てられた一際大きな天幕を目指していた。


 向かう道中、俺は幾つもの兵の列をすり抜けてきた。


 「よし、軸調整完了! 巻き上げ、三度目いくぞ!」「角度十度上げろ、弾はまだか!」

 

 荒々しい掛け声の間を、俺は言葉少なに進んだ。


 巨大な投石器の傍らでは、兵たちが滑車を締め、歯車を噛ませ、木の骨組みに油を塗っていた。新設されたばかりのその機体には、まだ木屑と鉄粉の匂いが染みついており、陽の光を浴びた革紐がピンと張って軋んでいた。


 整備兵の一人が振り返り、俺に気づいて軽く礼を送ってくる。俺は目礼を返し、投石器の陰を抜け、砂埃舞う道を踏みしめながら歩を進める。


 ……視線を感じた。  


 己に与えられた任を果たす兵たち。その誰もが俺を直視しているわけではない。だが、ふとした瞬間に向けられる視線が、胸の奥を突き刺す。  


  騎士団の面汚し。敗軍の将。


 何を思われているか――言葉にされずとも、想像はついた。  


 胸に疼くのは、悔しさか、恥か。それとも、まだ消えぬ自責の残響か。  


 惨めな感情が顔を覗かせる。だが、表情には出さず、ただ黙って足を前に出し続けた。


 近づくほどに、天幕の威圧感が肌を刺してくる。


 ――第一騎士団長、ゴドリック。


 “亜人殺し”とまで呼ばれる戦功の持ち主。その名を聞かぬ騎士はいない。だが、俺にとってその男は、ただの上官でも、憧れの将でもなかった。


 騎士団長の任を解かれ、最前線へ飛ばされた俺にとって――その名は、試練の幕を開く鍵にすぎない。


 幕兵に名を告げると、すぐに返答があった。


「入れ、とのことだ」


 俺は深く一礼し、天幕をくぐった。


 ――空気が変わる。


 外の喧騒が嘘のように静かになった。燻る薬草の香りと、低く灯された光だけが場を支配している。幕の奥、低い卓の前に座していたのは――老人だった。


 薄くなった白髪の頭皮と、深い皺を刻んだ顔は、戦場よりも教会が似合うような穏やかさをたたえている。もし鎧を纏っていなければ、神父だと見間違えたかもしれない。


 それが、“亜人殺し”ゴドリックだった。


「来たか。……座りなさい」


 柔らかい声だった。まるで、説教を始める前の老牧師のような。


「……騎士ロダン。参上いたしました」


 定められた通りに名乗り、姿勢を正して座る。だが、胸の奥に鉛のような重みが残る。剣を握っていた手が、まだ震えていた。


  ゴドリックは湯気を立てる茶を卓上に置き、俺の方へ軽く押しやった。


「少し、落ち着いてから話そう。これは“裁き”の席ではないよ」


 その言葉に、息を詰めていた自分に気づく。無意識に、俺は肩に力を入れていたらしい。


 茶を口に含むと、予想よりも熱く、そしてセージとカモミールの苦味が喉に残った。だが、それが妙に心地よい。


 そして、老人はまっすぐ俺を見た。戦場を何度も越えた者の、静かな眼差し。


「……ロダンよ。レーウェンで、何があった?」


 問いかけはあまりに静かで、だからこそ――重かった。


 喉が渇く。言葉が、うまく出てこない。


 ――いや、出せないのだ。


 思い出すだけで、あの夜の悲鳴が耳に蘇る。血にまみれた部下たちの顔、折れた剣、焼け落ちた野営地。


 俺は、唇を噛み、目を閉じて息を整えた。たった一言が、喉の奥に引っかかっている。


 そして、ようやく――口を開いた。


「……三百の兵を死なせました。オークに占拠された砦は奪還できず――我々は一人のオークの英雄を生み出してしまいました」


 松明の灯りが揺れ、影が揺らめく。俺の声は震えていた。


 ゴドリックは一瞬言葉を選ぶように唇を閉ざしてから、ゆっくりと頷いた。


「……それを聞けて良かった、ロダン」


 その声には非難の色はなかった。


「犠牲者の数だけではない。お前が歯を食いしばって耐えていたこと、部下を守ろうと必死だったこと、それを、忘れてはならぬ」


 俺は視線をゴドリックの目に戻す。老将の目には、数多の戦を越え、剣を交えてきた者の悼みと誇りが交錯している。


「オークの英雄……“レーウェンの黒鬼”……か」 


 ゴドリックの声は、穏やかながらも芯に鋼を含んでいた。俺はその響きに、一瞬、背筋を正した。


「はい、奴は未だレーウェンの砦に籠っています。私の副官だったフレイが第二騎士団を率いて、現在進軍中です」


 言い終えた直後、わずかに胸を張る。敗残の身とはいえ、次なる一手は打っている。その報告に、己の名誉のかけらを込めたつもりだった。


 だが、ゴドリックの返答は、あまりにも静かで、あまりにも重かった。


「いや、奴は既にマグ=ホルド入りしておる」


「……何……?」


 その瞬間、背骨の奥を氷の刃が這い上がった。皮膚の下を這う冷気に、視界が歪む。

 あの野営地で見た、焔の中に浮かぶ黒い巨影。

 あれが、ここにいる?

 あの夜の絶望が、再び俺の足元を崩しに来るというのか。


「剣山からの強襲、あのルートは流石の儂も想定外だった。ジャハンの“血斧”を屠る策を粉々に砕かれた。奴は一体何者だ?」


 俺の胸が激しく脈を打つ。汗が額ににじみ、息が浅くなる。全身の感覚が鋭敏になり、怪物の影がこの天幕の影にも潜んでいるように感じた。


「それに、奴がマグ=ホルド入りしてからというもの、戦場の風向きが明らかに変わった。オークの軍が、無駄な突撃をせずに鳴りをひそめておる。……やりずらいのう」


 ゴドリックは静かに茶を啜った。


 戦の空気が変わる――その言葉の意味を、俺もよく知っていた。


 拙い指揮官は、戦を動かすことで己の存在を示そうとする。だが真に恐るべき敵は、“動かぬ時”にも力を示す。


「……レーウェンの時と同じ様に思えます。連中は、戦局を見ている。焦らず、騒がず。そういうことですか?」


「うむ。儂も最初は我が第一騎士団に『怯えている』と思った。だがな、ロダン。戦場において“怯える者”はこんな静かさを保てん。むしろ、静かすぎるのだ」


 ゴドリックは卓の地図に手を伸ばし、騎士団の配置図の一部に指を置いた。


「これは“見ている”のだ。兵の流れ、補給の線、我らの次の一手すら読もうとしている」


 俺は思わず拳を握った。


「……奴はあの戦いからさらに進化している?」


 ぞっとする寒気が背を撫でた。


 ゴドリックは瞳を見つめたまま、言葉を選ぶように沈黙した。そして――


「うむ。だからこそ、“黒鬼”を知る者――お前が必要なのだよ、ロダン。参謀本部の議にも、席を設けさせよう。力を貸してくれ」


 俺は深く頷いた。


 恐れはある。敗北の痛みも、過ちの影も、まだ背後にまとわりついて離れない。

 だがそれでも――


 マルコス、ウェン、レイセント、エドガー、ジン。


 あの黒鬼がいるというなら、なおのこと、俺はこの戦に立たねばならない。

 それが、失われた三百の兵たちへの、唯一の弔いなのだから。

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