第33話 新たな手札
戦場が、動き出した。
朝靄をかき分ける風が、マグ=ホルドの高い城壁を撫でてゆく。岩肌に食い込むように築かれたこの要塞は、幾多の攻囲を退けてきた難攻不落の砦。その灰褐色の石造りの城壁の上で、俺はじっと南方を見下ろしていた。
濁流がうねる大河。その対岸――霞の向こうに、異質な“色”が混じっていた。見慣れぬ旗印が林立し、朝日を背に翻っている。騎士たちの銀兜が陽光を反射し、正義を示すようにきらめいていた。
馬の嘶き。鋼の軋む音。遠くからでも聞こえる命令と号令。それら全てが、この城を飲み込もうとする“波”のようだった。
「……遂に来たか、第三、第四騎士団」
漏れた声は、冷たく城壁に染み込んでいく。
報告によれば、敵の主力たる騎士団が、ついに要塞を包囲する態勢に入ったという。だが、気になるのはその背後に続く、巨大な荷車群――積まれているのは、巨大な石弾と、木製の骨組み。遠目でもそれが投石器の一群であることは明らかだった。
マグ=ホルド――難攻不落のこの城を攻め落とすには、常道なら三つの選択肢しかない。
一つ、正面の吊り橋を強行突破。
二つ、背後の樹海を超えた奇襲。
三つ、川に船を浮かべ、渡河して強襲。
だがそのいずれも、我らの防備を潜り抜けるのは難しい。だからこそ――
「……厄介な男だ」
俺は唇を噛み、冷えた石壁に手をついた。秋の風が指先を刺すように冷たかった。
第一騎士団長、ゴドリック。
人間の間で“亜人殺し”と恐れられる戦将。あの男は、凡百の策ではなく――“第四の手”を選んだ。
「投石器で吊り橋の巻き上げ機を破壊し、橋を“下げっぱなし”にするつもりか……!」
手段としては回りくどい。だが、それゆえに我らの想定から外れていた。
吊り橋を物理的に固定してしまえば、あとは川を渡ることなく攻城戦に持ち込める――やつは、マグ=ホルドを“真正面から叩き潰す”気だ。
「……いや、それだけではない」
俺は顔を上げ、対岸を睨んだ。
投石器の射程は長く、こちらの弓兵では落とせない。橋を下ろし、部隊を出して破壊しに行くしかない。
――そして奴は、十中八九それを読んでいる。恐らくは、かなりの数の伏兵を用意し、待ち構えていることだろう。
「投石器をチラつかせるだけで、こちらの手段を潰してくるか。やはり、戦いに慣れている。『亜人殺し』の異名は伊達ではないようだ」
風がまた吹いた。旗が翻り、城門の奥で角笛が低く響いた。
だが、こちらも――手をこまねいていたわけではない。
「グル!」
声を飛ばすと、すぐ背後から副官の声が返ってきた。
「おう! ムルガンの贈り物だろ? さっき、鍛冶場から報せがあったぜ!」
「……間に合ったか」
俺は軽く頷いた。胸の奥がわずかに熱くなる。これで一手、ゴドリックの策を上回った。あとは、その武器がどこまで通じるか……。
「俺が行く。グル、お前はここでオルク=ガルを率いて待機しろ。状況が動いたらすぐに知らせを寄越せ」
「了解だ!」
グルが拳を胸に叩きつけ、嬉々とした顔でうなずいた。その背後では、漆黒の鎧をまとったオークたちが無言で武器を点検していた。油を差し、弦を張り直し、金属の刃を丹念に磨くその姿には、迷いはない。
目が、変わっていた。
戦士の眼――殺しに行く者の眼だ。
♦
俺は南棟の最奥、鍛冶場に来ていた。通路の壁を撫でる熱気が、前とは違う。
静かに扉を開けば、炉の咆哮とともに、金属の匂いが鼻を突く。
炉の数は――全基、稼働していた。
俺は一歩、鍛冶場へと足を踏み入れる。
目の前には、火花と怒声が交錯する“戦場”が広がっていた。
死者と生者が入り混じり、骨兵が黙々と風箱を動かす。
それに応えるように、職人たちが渾身の力で鉄を叩く。
汗を滴らせながら、誰一人として手を止めていない。いや、止められないのだ。
炉の奥に、ムルガンの姿を見つけた。
裸の上半身に煤を浴びせながら、ひと際大きな槌を振るっていた男。
俺に気づくと、すぐに槌を置いて歩み寄ってくる。
「来たか、バルド将軍」
その顔には疲労が刻まれていたが、何よりも――誇りがあった。
「……あれは、出来ているか」
俺の問いに、ムルガンは無言で顎をしゃくった。
鍛冶台の横、重布に包まれた長尺の物体が数十本、丁寧に並べられている。
「まだ数は少ねぇ。だが、この調子なら倍、いや三倍にもできる」
布がめくられた瞬間――それは姿を現した。
長さ1.5メートル。重量40キロ。
強化された複合木製フレームに、黒鉄の鉄弦。
常人では引けない、重さと反発力。
だがオークの膂力であれば、それを“矢”として射出することができる。
――オーク専用の超大型クロスボウ。
「……パーフェクトだ、ムルガン」
俺はゆっくりと両手を伸ばし、その武器を持ち上げた。
ズシリ、と全身に響く重量感が肩と腕を圧し潰す。
腕の筋が軋み、思わず歯を食いしばる。
膝を軽く落とし、背中に力を込めて持ち上げる。
その動作一つで、筋骨がうなりを上げた。まるで、鋼鉄の塊を抱えるような感覚だった。
指が感じたのは、破壊と、死だ。
かねてから、俺は疑問を抱いていた。
――なぜオークは、人間の武器をそのまま使っているのか。
我々は膂力に優れる。
人間には到底扱えぬ重量の鎧を着こなし、素手でも岩を砕けるほどの腕を持つ。
それなのに、使う武器は細身の剣や、軽い弓。
「人間にとってちょうど良い」が、「オークにとって最適」だとは限らないはずだ。
(いや……違う。“限らない”どころか、間違っていたのだ)
ムルガンの手で作られたこの超大型クロスボウは、その答えだった。
ただでさえ重いこの弩を、扱えるのは我々だけ。
弦を引く腕力も、構える持久力も、人間には真似できない。
(これは……“オークのための武器”だ)
俺は超大型クロスボウを置き、静かに目を閉じた。
「……持ち運べる破城槌か、これは。これほどの弩を見たのは初めてだ」
俺が唸ると、ムルガンは煤にまみれた腕を拭い、にやりと笑った。
「そりゃあ、“考案者殿”のアイデアが良かったんだろ? 槍を射出するなんて聞いた日には驚いたぜ!で――聞かせてもらおうか。コイツの名前は何にするんだ?」
周囲の鍛冶兵たちが静かに手を止める。巡回兵たちすら、目を向けた。
俺は一拍、間を置き、その機構に触れながら答えた。
「――
ムルガンが低く笑う。「いい名だ」と呟いたその声に、火の音が重なる。
「じゃあ、通してやろうじゃねぇか!亜人殺しの、騎士団の鎧をな!」
この武器は――マグ=ホルドの“象徴”となる。
そしてそれを引く死神は、俺たちオークだ。
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