第31話 将軍就任
薄明かりが城壁の隙間を縫って差し込む早朝。霧が濁流の川面を這い、要塞マグ=ホルドにはまだ夜の静寂が残っていた。兵士たちは火を起こし、槍を磨き、油灯を灯す。けれど多くは、玉座の間――大広間へと歩を進めていた。
大広間には、わずかな燭台の灯りが部屋を照らし、灰色の影を長く床に落としている。外の朝霧と冷たい風が、扉の隙間から音もなく忍び込んでいた。
静寂。それは恐れでも怯えでもなく――新たな始まりの予感だった。
黒鉄の玉座の前、俺は背筋を伸ばして立っていた。鎧の金属と儀礼刀が朝日をかすかに反射する。前にはアクーバ、ムルガン、シャマルクの三将が整列し、玉座の上には大将軍ザガノスが威厳を放っていた。
「……ガル士族長バルド、貴殿を将軍に任命する」
その声は冷えた朝の空気を裂いた。兵たちは一斉に息をひそめる。
ザガノスの声が続く。シャマルクの傀儡だとは感じさせないほど、覇気に満ちていた。
「騎士団の包囲が迫る中、我々は新しい風を取り入れなければならん。“ザラ=クル越え”を果たし、見事アク―バの部隊を救ったその戦略眼。レーウェンの砦において、多勢の敵兵を前にして前線を維持し、第二騎士団を退けたその手腕は疑いの余地もなし」
俺は石床の冷たさを感じながら、膝を折った。
「よって貴殿を、我がマグ=ホルドの四人目の将軍とする。千の兵を預ける。名を掲げ、軍を率いよ」
「……承った。この身に余る大役、全力で応えよう」
ゆっくりと顔を上げ、横目でシャマルクの方を見た。その視線が合い、差し込んだ陽光が黒布をうっすら照らし、そこに“試練”の影を見た。
(――この茶番の理由は……大口を叩いたからには、力を見せろということだな)
戴冠を見送った代償は言葉ではなく、行動で示せ――あの老婆の意志が、空気を震わせて伝わってくる。
ならば応えよう。
俺はゆっくりと立ち上がる。鎧がギシリと鳴り、周囲の視線が一斉に俺へ集まる。アクーバもムルガンも黙して俺を見ていた。
「この命と、この知略、すべてをこの地に捧げよう。……我が手で、このマグ=ホルドを守り抜く」
異を唱える者はいなかった。拳を胸に当てる兵たちがひとり、またひとり。敬意の波が大広間を静かに満たしていく。
俺はその敬意を、静かに受け止めた。
再びシャマルクを見やる。無言だが、顎をわずかに引くその動きに、肯定の兆しを感じた。
(王に最も近かった男――大将軍ザガノスは既に死んでいる。両軍に露見する前に、“空白”を埋める必要がある。亜人の軍を一つに束ねる、絶対的な指導者が必要だ。)
静かに、俺は一歩を引いた。
踵を返し、外套の裾を翻す。今の俺には言葉よりも、“行動”が必要だ。
将軍として最初の一手は、城内からだ。
内なる腐敗を切り落とし、亜人の矜持を取り戻す。
そのために俺は、“将の背中”を見せる必要がある。
♦
将軍になって、俺が初めて着手した仕事は――補給の改善だった。
それは、剣を振るうことでも、作戦を練ることでもない。
だが、戦場を知る者なら誰もが理解している。補給は“血管”だ。
それが詰まれば、どんな軍も、どれだけ強くとも死ぬ。
シャドリクから得た報告が、俺の背を押した。
兵糧は杜撰に管理され、倉庫ごとに在庫に差があり、横流しの痕跡さえある。
現時点で飢えはなくとも、この包囲下で二か月も保てるかは怪しい。
しかも、それを管轄しているのは――酒に溺れたムルガンと、その配下たち。
戦の足を引っ張るのは、敵だけとは限らん。
内の乱れこそ、軍を腐らせる毒だ。
王を意識して俺は決めた。
言葉ではなく、“姿”で示す。
それこそが、前線で戦う兵たちに報いる唯一の方法だと信じて。
「はっはっは! まさかバルドが将軍様になっちまうとはなぁ!」
先頭を歩く俺の隣に、グルが豪快に笑いながら声をかけてきた。その笑い声は通路の石壁に反響し、後続の兵たちまでざわつかせる。だが、からかうようでいて、その目に浮かぶのは嬉しそうな光だった。
「……就任おめでとう、族長」
シャドリクが低い声で呟くように言った。
「ガッハハ!アンタに付いていくと退屈しなくて済むぜ!」
ザルグが肩で笑いながら言う。大剣を担ぎ、列の中でもひと際目立つ体躯が、周囲を威圧する。
「それで族長って呼べばいいの? それとも将軍?」
テルンは俺の肩越しに、軽口を叩く。金属製の矢筒が腰で軽く揺れ、彼の動きに合わせて乾いた音を立てた。
「好きに呼べ。将軍になったといってもやることは変わらん。戦士の務めを果たすだけだ」
俺は前を向いたまま応じた。
「それで、どこに向かってるんだバルド?」
グルが興味半分、面倒ごと半分といった調子で聞いてくる。
「南棟の補給管理倉庫だ。シャドリクからの情報で、杜撰な管理であることが分かった。敵の本格攻勢前に、徹底的に改善する」
言いながら俺は、背後に続くオルク=ガルたちの足音を聞く。戦士達の行進。誰一人として乱れぬ、その歩みには揺るぎない意志があった。
通路を行き交っていた一般兵たちの動きが、ぴたりと止まる。
――オルク=ガル。
この戦場で唯一、150名全員が進化を遂げた特異な軍勢。その一人ひとりが、一般兵からすれば“怪物”に映るのも無理はなかった。
足を止めた兵士たちは、次第に道を譲るように左右に身を引いた。驚愕と警戒が入り混じった視線が、俺たちの列に注がれる。まるで海を割るように、通路の中央にぽっかりと“通り道”が生まれた。
「……黒い肌と金色の双眸――あれが黒鬼将軍……!」
「おいあの兵達……まさか将軍の直卒か?」
「見ろ、全員……進化個体だ」
「嘘だろ……どうなってんだ!?」
囁き声があちこちで広がるが、誰も口に出して止めようとはしない。むしろ、威圧と畏怖の気配が、この細い通路を支配していた。
俺たちが進むたびに、要塞内の喧騒が一瞬止む。整然と、そして獰猛に歩くオルク=ガルの姿に、武具を運んでいた一般兵たちが次々と道を譲る。中には腰を抜かしそうになった若い兵もいた。
誰かが命じたわけでもない。
ただ、“見てしまった”だけだ。統率された猛獣が、こちらに迫ってくる光景を。
そして、誰もが理解したのだろう。
この軍団は、普通ではないと。
「……ことの他、良いデモンストレーションになったな」
俺は前を向いたまま呟く。
誰に言ったわけでもない。だが背後で、グルの小さな笑い声が漏れた。
♦
補給管理倉庫――。
マグ=ホルドの南棟に位置するその一角は、戦の中でもひときわ重要な区域であるはずだった。だが、俺の目に映った現実は――あまりに緩んでいた。
樽を抱えて笑い合う声。地面に転がったパンの欠片。帳簿は棚に雑に積まれ、誰も確認している様子はない。出入りする兵士も報告なく、まるで野営地の如き有様だった。
倉庫の正面に、酔ったような足取りの男が腰掛けていた。ムルガンの配下と見えるその兵士は、俺たちに気づいてもすぐには立ち上がらなかった。
「……ん? なんだ、朝から騒々しいな……おい、お前ら誰に――」
その言葉が最後まで届くことはなかった。
俺の背後を埋める、オルク=ガルの戦士たちが一斉に一歩踏み出した。石畳が小さく震え、空気が圧迫される。
マグ=ホルドの最高権力者「将軍」
その名をまだ理解できぬ者たちの前に、“事実”が立ちはだかる。
黒い肌に、金色の双眸。
そして統率された進化個体のみで構成された精鋭中の精鋭。
四人目の将軍。それを上官が知らなかったでは済まされない。
「し……失礼しました、将軍閣下……ッ!」
最初にひざをついたのは、帳簿を持っていた中年の兵だった。続いて次々と、慌てて地面に頭を垂れる姿が並ぶ。酒気の残る口調が消え、緊張が場を支配する。
俺は一歩、前に出る。
「……ここが、補給の心臓部とはな」
呆れにも似た吐息を漏らし、冷たい視線を倉庫内に走らせる。
「――笑わせる」
眠りから目覚めかけた将校たちが、慌てて立ち上がりかけるが、その前に俺の声が酒気を帯びた空気を裂いた。
「酒は戦略物資だ!決戦前の戦意向上、軽度の傷への治療――使い道はいくらでもある。だが貴様らは、それをただ娯楽のためだけに垂れ流している」
将校たちが顔を引きつらせる。中には言い訳を探すように口を開きかけた者もいたが、俺はそれを許さなかった。
「貴様らの怠慢は、我らの勝利を遠ざけた。 それを忘れるな――!」
鋭く叩きつけるような言葉に、空気が震えた。
「今よりこの補給倉庫は、俺の直轄とする。横流しの記録、物資の偏り、すべて洗い出せ。協力を拒む者は即座に首を刎ねろ!喜べ、死の戦列に加わらせてやる!」
ざわ……と兵たちの背が凍るように固まる。
俺の背後からは、ザルグが不敵に笑みを浮かべ、テルンがわざとらしく鼻で笑う。
「族長、ここはムルガン将軍の管轄だろ?奪ったらまずいんじゃない?」
「諦めろ……バルドは元からそういうやつだ」
グルが肩をすくめる。だが、その声には確かな信頼がこもっていた。
「――テルン。お前が、この補給区画の監査責任者だ」
「……えぇ〜、俺ぇ〜? なんでぇ? 俺ってば現場主義の色男なんだけど?」
「破ったヤツは――射殺しても構わん」
「さっすが族長! じゃ、やらせてもらうよ。ムルガン配下もビシバシ管理しちゃうから!」
そして、ここからが“再建”の始まりだ。
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