第29話 謁見

 濁流に守られた戦略要衝マグ=ホルド。

 その黒鉄の門をくぐった瞬間、戦場を満たしていた轟音は、まるで幕が引かれたかのように遠のいた。


 石畳を踏みしめるごとに、戦火の残滓がまとわりついてくる。

 煤で曇った壁、焦げついた旗布、そして黒く染み付いた血痕。

 全てが、この城が未だ戦場であることを物語っていた。


 「俺様だ! 客人を連れてきた。扉を開けろ!」

 「はっ!」


 アクーバの後を追い、城内奥深く――指令区画の中心へと進む。

 通されたのは、兵站と前線情報が集約される中枢、大広間。

 空気は一変し、言葉よりも先に「圧」が全身を叩く。

 視線の一つ一つが、異物であるこちらを測っていた。


 その最奥、黒鉄の玉座。

 鋼の塊から削り出された、威圧の具現。 


そこに座するは――

 マグ=ホルド全軍を統べる老将、大将軍ザガノス。


 ただ鎮座しているだけで、軍規と命令が流れる方向を支配していた。



 煤けた黒鎧を纏い、膝に凭れるは重量級の魔剣。

 通常の兵では持ち上げることすら叶わぬであろう大剣だ。

 眼光は老いの鈍りなど微塵もなく、むしろ獣を屠る狩人の如し。

 その視線ひとつで、全軍の命運が定まる――そんな錯覚すら抱かせた。


 炎の如き威圧を前に、俺は膝をつき、頭を垂れた。

 この存在感だけで、彼がこの戦線の頂点であると理解できた。


「ガル士族長、バルド。……オークの未来を背負い、参陣した」


 玉座より響いたのは、低く沈む大地の咆哮のような声だった。


「ほう。テポンの後継か」

 黒鉄の鎧がわずかに軋む音とともに、老将ザガノスは僅かに身を前へ傾けた。

「遠き辺境よりよく馳せ参じたな。――貴殿の突撃が、我が軍の崩壊を一歩手前で食い止めた。その戦功、我らの軍記に刻まれよう」


「……同胞を救うために剣を振るったまでだ」


 ザガノスは深く頷く。その動作に合わせて、玉座の背がわずかに軋んだ。


「オーク七氏族において、族長自らの意志でマグ=ホルドに赴いたのは貴殿が初だ。その覚悟と行動力、賞賛に値する。……本来であれば、戦功として褒章を授けるべきところだが……」


 煤けた兜の奥で光る双眸が、鋭く光を灯す。


「戦は未だ終わらず。我らは尚、泥濘の只中にある。誉も名も、勝利の後でこそ意味を持つ――そうだろう、ガルの族長よ?」


 威圧と共に紡がれる言葉は、一語一語が戦斧の一撃の如く、広間に鳴り響いた。

 空気が頭にのしかかるような圧に、自然と背筋が固まる。


 ……だが、その重圧の中で、俺の胸の奥に、微かな疑いが広がった。


 ――違和感。


 眼前のザガノスは、確かに将の威容を備えている。

 煤けた黒鎧、黒い魔剣、玉座の座に相応しい風格。

 だが――そのすべてが、“どこか空虚”に感じられた。


 何かがおかしい。


 右目の奥で、黒点が揺れる。

 死霊術を得て以来、決して消えることのない黒点。

 それを通して見れば、この世は常に血と白骨の地獄に変じる。

 生者であれ死者であれ、例外なくその姿は地獄に沈むはずだった。


 ――だが


 大将軍ザガノスを通して視た世界には、何もなかった。

 鎧も、大剣も、身体も。

 ただ「無」だけがそこにあった。


(……どういうことだ? 錯覚なのか?……)


 変質しつつある右目を全面的に信じているわけではない。

 だが、この目がもたらす光景に例外など一度として無かった。

 それが、今ここで覆されている。


 喉が渇き、拳に力がこもる。

 背筋に冷たい汗が伝うのを、誰にも気づかせぬよう抑え込む。


 俺は跪いたまま、唇をわずかに動かした。


「……《鷹の目》」


 視界が一気に開かれ、視点が一段高くなる。

 数秒だけに限定した発動。情報の奔流に飲まれる前に切り上げる。


 俯瞰視点でもザガノスや他の将軍に違和感はない。だが――


 玉座。


 その背後。


 黒鉄の壁に埋め込まれたように、があった。


(……玉座の背後に、扉……? これは……)


 思考が深まるより早く、鋭い声が割り込んだ。


「ガル族長よ」


 はっと顔を上げる。

 気づけば、俺はザガノスの眼光と正面からぶつかっていた。


?」


「……。」

 俺はわずかに頭を垂れ、取り繕う。

 この場で余計な動揺を悟られるわけにはいかない。


「よい」

 ザガノスはそれ以上追及せず、黒い大剣の柄に手を添えた。

 「貴殿に、我が腹心を紹介しよう」


 ザガノスが重く言葉を落とすと、玉座の左右に控えていた三つの影が前に進み出た。軍政の中枢を支える将たち。いずれも名だけが独り歩きするような凡将ではない。戦の中に生き、その名を勝ち取った者どもだ。


 「まずは――“血斧”アクーバ」


 名が広間に響いた刹那、空気に血の臭いが満ちたような錯覚を覚える。血に塗れた軽装のまま、アクーバ=ジャハンが笑う。片手で掲げた巨鉄のハルバードが、燭火にぎらりと反射した。


 「ヒャハハ! 改めてよろしくな、黒鬼! 俺様とて借りを作ったままじゃ終われねぇ。――お前と俺様で、連中を片っ端から血祭りにしてやろうぜ!」


 狂笑。獣の咆哮。だがその全てに、戦場を血で踏破してきた将の風格が宿っていた。


 「次に――“炉鳴り”ムルガン」


 大柄な男が、鉄槌と酒瓶を携えたまま歩み出る。その足取りのたびに、炉の熱が押し寄せるような感覚。煤に焼けた前掛け、焦げ跡のついた鎧――鍛冶場と戦場の両方を渡り歩いてきたことは、姿一つで語るに足る。


 「鉄と火酒さえあれば戦も鍛冶も愉快なもんだ!そうだろう?」


 その言葉は冗談に聞こえて、冗談ではない。戦場の武器は彼の炉から生まれ、彼の酒で清められる。


 「そして――“呪婦”シャマルク」


 黒布で顔を覆った老婆が、乾いた杖音を響かせて進み出た。骨飾りが擦れ合うたび、ぞっとするほど冷たい音が広間に響き渡る。灯火が揺らぎ、空気の温度が一気に下がるのが分かった。


 「へぇ……これは珍しい。こんなにも“深く黒い”魂を見たのは、久しぶりだよ」


 氷のような呪気を残し、シャマルクは一歩退いた。空気がわずかに緩むが、それは安堵ではなかった。刃を突きつけられていた緊張が、一瞬だけ引いたに過ぎない。


 「――以上、我が軍を支える三将だ」


 ザガノスの声が再び広間に響き渡る。


 「“血斧”は前線を、“炉鳴り”は兵站と補給を、“呪婦”は呪術と祈祷を担う。それぞれが一軍を任せる器を持つ。貴殿も、その力に加わるのだ」


 俺は静かに頷いた。彼らはいずれも、強烈すぎる個性を持ちながらも、軍としての機能を果たしていた。それがマグ=ホルドが難攻不落と言われる所以だろう。


 「次に――戦況だ」


 ザガノスの眼光が、軍を見渡し、やがて俺を射抜いた。


 「マリス神聖王国は“第一騎士団”を投入した。すでに北東の前線に展開し、戦況は急速に悪化している」


 その言葉に、脳裏にあの光景が甦る。黄金の獅子旗、赤のサーコート。寸分違わぬ足並みで迫り来る鉄の壁。あの軍勢の足並みは、脅威そのものだった。


 「さらに――南方より“第三”および“第四騎士団”が進軍中。報告では、数日中にマグ=ホルドを完全包囲する見込みだ」


 背筋を汗が伝った。マグ=ホルドの陥落は想定よりも早い可能性すらある。


 「いずれにせよ、時間はない」


 ザガノスは言い切った。その声音に迷いはなく、ただ鋼のごとき決意があった。


 「この戦は、ここで決する。マグ=ホルドを守れねば、我らオークの未来は潰える。……ガル士族長バルドよ、貴殿の力、余すところなく振るってもらうぞ」


 その瞬間、広間の空気が灼けた。

 ザガノスの眼光は焔のごとく俺を貫き、命令ではなく“覚悟”そのものが投げつけられてきた。


 俺は、膝をついたまま深く頭を垂れた。


                  ♦


 謁見を終え、広間を後にする。

 背後に閉ざされた黒鉄の扉の重圧はなお、胸の奥に残り続けていた。


 ――やはり、あの扉。


 玉座の背後に口を噤むように埋め込まれた黒鉄の扉と、大将軍を視たときの空虚。

 気のせいなどでは済ませられない。


 俺は暗がりに視線を向け、小さく声を投げた。


「……シャドリク」


「……はっ」

 影が揺れ、床に膝をついた黒装の刺客が姿を現す。

 薄闇に溶けるような声。


「少し気になることがある。アサシン隊を動かせ。マグ=ホルドの現状を調べろ」


「承知」


「兵糧、武器、兵数、士気、将の素性――あらゆる情報を抑えろ」

 俺は低く続ける。

「加えて、大広間の玉座の裏。……そこに扉がある。それについても頼む」


「御意」


 シャドリクの影は、声を残すことなく闇に溶けた。

 一瞬前まで人がいた痕跡すら消え失せ、残されたのは冷たい静寂だけ。


 重苦しい大広間の余韻の中で、その静けさは却って鋭い刃のように感じられた。



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