第26話 山越え

 ──バルド視点──


 マグ=ホルドへ至る道は三つある。


 一つ、街道を通るルート。

 平坦で進みやすく、補給も確保しやすい。

 だが人間どももそれを承知している。

 今や街道には斥候と巡回兵が張り付き、進軍すれば即座に露見するだろう。


 二つ、森を抜けるルート。

 鬱蒼とした樹海を進めば隠密性は高い。

 だが道は狭く、騎兵の機動力は殺される。

 しかも森は人間の狩人や斥候が得意とする戦場――戦に慣れた指揮官なら、このルートからの奇襲を真っ先に想定するに違いない。


 三つ、山を越えるルート。

 ザラ=クル山脈――古オーク語で「裂ける岩」を意味する名を持つその地は、岩肌が剝き出しで切り立ち、人間たちからは「剣山」と恐れられている。

 道は険しく、寒冷と飢えに晒される。馬は足を挫き、兵の足も止まる。

 常道ならば軍を率いて踏み入る場所ではない。

 だが――誰も予期せぬ道であり、敵の警戒は最も薄い。


 幹部たちは沈黙していた。

 グルは腕を組み、鋭い片目で険しい山影を睨みつける。

「……死人が出るぞ」


 ザルグは大剣を肩に担ぎ、鼻を鳴らした。

「死人なら、もう連れてんだろ? 立派なもんだ、骨どもは歩き疲れもしねぇ」


 テルンは皮肉げに笑い、矢羽を弄んだ。

「正気の指揮官ならそのルートは選ばないさ。補給は途絶え、不安定な天候は容赦なく兵を削る。……族長、あんた、よほどの博打打ちだ」


 俺は彼らの視線を受け止め、低く答えた。


「博打ではない。街道は封鎖され、森は待ち伏せが前提だ。残るは山しかない。試練は承知の上。だが……踏破することが出来れば敵陣の背後を抑えられる」


 言葉と同時に、俺は右目に漂う黒い靄を押さえた。

 死霊術ネクロマンシーを手にしたその日から、消えることなく視界にちらつく黒点。

 これが意図する所ははっきりとは分かっていない。

 だが、その黒い点を通して世界を見ると、あらゆるものが血と白骨の景色に変わる。


 今はまだ、抑え込めている。

 だが――死の力を振るうたびに黒点は広がり、生と死の境界が溶け合っていくのを感じる。

 このままでは、俺自身がどちらの世界に属しているのか分からなくなる。


 だからこそ、マグ=ホルドまでの旅程は短縮せねばならなかった。

 同胞の救援のためだけではない。

 俺自身の理性を保つためにも――。


「……無論、選ぶルートは山越えだ」


 その声は、誰の反論も許さぬ断裁であった。

 幹部たちは黙して頷き、軍勢は進路を変える。


 かくして俺は五百の軍を率いて、ザラ=クル山脈――剣山へと足を踏み入れた。

 岩肌が刀剣のように連なり、冷気が肌を裂く地。

 その地獄の行軍こそ、勝利への道であった。



                 ♦



 岩と砂利の道なき道を、俺たちの軍勢は進んだ。

 両脇には切り立つ断崖、足元には崩れ落ちそうな細い山道。踏み外せば、遥か谷底へと転げ落ちるしかない。

 首無し騎士馬デュラハン・ホースに跨る俺の後ろに、オークの戦士たちと死者の群れが連なり、冷たい風を切って列となる。


「ハッ、なんだよこの山道。馬の尻しか見えねえ」

「どうせ見るなら女の尻がよかったな」

「「ガッハハ!違ぇねぇ」」


「……馬鹿ども。前を見ろ、岩が崩れるぞ」


 最初の頃は、まだ戦士たちに余裕があった。

 軽口と罵声が飛び交い、笑いすら混じった。

 だがそれも長くは続かない。


「……くそ、また石で靴底が割れた」

「弱音吐くな。もう片方は残ってんだろうが」


陽が出れば岩は灼け、額から汗が伝う。

雲が寄れば冷雨が降り、体熱を奪い尽くす。

山はひとときも戦士を休ませなかった。


「……族長、何日こんな道を進むんだ?もう三日目だぞ」

「ケツが擦れて火が出そうだ……」

「これじゃあ戦場に着く前にくたばっちまうよ」


「お前ら口を動かす前に足を動かせ。安心しろ、死んだら骨の戦列に加えてやる」

「……容赦ねぇな」


「死にたくないならとっとと進め」


 夜になればさらに苛烈だった。

 黒々とした山影に火を灯しても、焚き火はすぐに風に散らされる。

 眠りは浅く、寒気に震えながら目を閉じるしかなかった。


「疲れがとれねぇ」

「うぅ寒い」


 眠れぬ夜を耐え抜いた戦士たちを、翌日の行軍は容赦なく痛めつける。わずかな段差を越えるたびに、騎乗者の身体が大きく揺れ、鎧の縁が皮膚に食い込んだ。長時間の騎乗は、兵たちの腰と腿を容赦なく苛む。

 尻は鞍に擦り切れ、汗と血で赤黒く染まり、足は常に痺れて感覚を失っている。

 振動は内臓を揺さぶり、食ったものを逆流させ、吐き気を抑える者も少なくなかった。


 馬に跨がっているはずが、むしろ馬に体を削られているような感覚――。

 それが「山を騎馬で行軍する」ということだった。


「おいおい!馬がダメになっちまった」

「こっちもだ!」


 やがて馬が足を挫いた。

 過酷な行軍で一頭、また一頭と力尽き、道端に崩れる。

 俺はそのたびに死霊術を施し、骨馬スケルトン・ホースとして蘇らせた。

 肉を削ぎ落し、白骨だけとなった馬は、疲労も飢えも知らぬ。

 進軍のたびに数を増し、気づけば列を成すのはすべて死の軍馬となっていた。



                  ♦



ザラ=クル山脈に足を踏み入れて、5日が経過した。


「ハァ……ハァ……」

「……げ、限界だ」


 馬は補えても、兵の疲労は補えない。部隊の主力は生身のオークだ。大自然の猛威による疲労は、戦士たちから声を奪った。

 最初は冗談交じりに笑い合っていた声が、やがて沈黙に沈んだ。

 今や山道に響くのは、蹄のきしみと鎧の擦れる音だけ。

 声を出すことすら惜しいのだ。


 過酷な行軍の果て、谷間を越えた頃には、戦士たちの顔には無言の苦渋だけが刻まれていた。

 唇はひび割れ、眼は乾き、息は荒い。

 誰も口を開かず、ただ岩と冷気と飢えに耐えるのみだった。


 俺は振り返り、沈黙の行列を見やった。


「おいお前ら……最初の威勢はどこへ行った?」

「…………。」


 誰も答えない。

 ただ黙りこくり、足を前へ運ぶばかり。



                  ♦



  それからさらに2日が経過した。

 ザラ=クル山脈の道なき道を進み続け、俺たちは馬を使い潰しながら前進した。

 そして――過酷な旅路の果てに。


  稜線を越えた瞬間、霧が裂けた。

 眼下に広がるのは濁流うねる大河。

 その中洲に、灰色の巨躯がそびえ立っていた。


 水上要塞――マグ=ホルド。


 オークとドワーフが二十年をかけて築き上げた、亜人の砦。


 俺は首無し騎士馬デュラハン・ホースの手綱を引き、振り返った。

 骨馬に跨るライダーたちも、重装の歩兵も、矢筒を担ぐ射手も。

 その誰もが疲れを忘れる程に息を飲み、その築城を見つめていた。


 最初に口を開いたのはグルだった。

「……あれが、マグ=ホルド!バルド!ついにたどり着いたのか!」


 ザルグは大剣を地に突き、豪快に笑う。

「クハハ! とんでもねぇ砦だ」


 テルンは細めた目で要塞を眺め、口笛を鳴らした。

「まるで岩の城塞だね……あれが人間に落とされるとは到底思えないけど」


 シャドリクは短く一言。

「……同胞を救い出す」


 その言葉に重みが宿ると同時に、前方を見張っていた斥候が叫んだ。


「見ろ! 騎兵隊が孤立しているぞ!」


 俺たちの視線が一斉に跳ね橋前方の平原へ向く。

 オークの斧騎兵が人間の槍兵に囲まれ、必死に突破を試みていた。 だが周囲には弓兵が列を組み、後方からは赤い旗を翻した騎士団が迫る。

 数の差は歴然。囲みは刻一刻と狭まり、彼らは今まさに吞み込まれる最中だった。


「……あれは斧騎兵。ジャハン士族のハルバード隊だ!」

「退路がねぇ、ありゃ直ぐにでも瓦解するぞ!」

 誰かが声を上げ、軍勢に緊張が走る。


 その時、俺は剣を抜き放った。

 黒刃が陽光を浴び、閃光を走らせる。


「全軍に告ぐ! これより同胞を救い出す!」

 声は山を裂き、戦士たちの胸に火をつけた。


骨兵スケルトン! 残るすべての兵で騎兵突撃を敢行する!」

 俺の言葉にライダーたちが槍を握り、ソルジャーたちが剣を叩き合わせた。


「オルク=ガル!俺に続け!!敵の側面を喰いちぎり、血の道を切り開く!」


 その号令に応じ、死馬たちが蹄を鳴らした。

 雷鳴のような轟音が稜線を揺らし、谷に反響する。


 大地を震わせる突撃――それが、マグ=ホルドを揺るがす最初の咆哮であった。

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