第22話 逃げた先

 ――カズロス男爵視点――


 館が揺れている。剣戟と悲鳴が、壁を震わせるたびに私の心臓は縮み上がった。

 玄関から逃げる勇気など毛頭なく、私は裏手の通路を目指し必死に駆けていた。

 脂汗で背中の絹服が張り付き、鞄に詰め込んだ本の重みが肩に食い込む。


「なにをしているんだ、衛兵どもは! 給金を貰っていながら騒ぎ一つ抑えられんのか!」


 怒鳴り声は、震えの混じったかすれ声だった。

 だが、己の恐怖をごまかすように、私は何度も繰り返す。


 道中で兵士の姿は一人も見かけない。

 どこに隠れているのか、それとも既に斬り伏せられたのか。

 だがそれが却って、私の怒りを煽った。


「腰抜けの役立たずどもめ! 酒ばかりあおって夜警を怠るからこうなるのだ!」


 見えていないからこそ、罵り立てずにいられない。

 私を守るべき者たちが無能だから、こうして私が走らねばならぬのだ。

 靴底が石畳を打つたびに、鞄の中の本ががしゃがしゃと鳴る。

 そのうちの数冊が、口を押さえきれずに絨毯に落ち、ページをぱらぱらと開いた。


「うっ……!」


 思わず振り返り、拾いに戻りかけたが――すぐに我に返る。

 今の私に本を拾う余裕などない。

 どれほど貴重なものでも、命あってのことだ。


 だが胸の奥では、落とした宝に執着が燻っている。

 これほどのコレクションさえあれば、王都に行けなくともやり直しはきく。

 禁呪の写し、魔導の原典、裏の歴史書――どれもが王侯貴族ですら喉から手を伸ばす逸品ばかり。

 私は本さえ守れば、領地を失っても生き延びられる。


(だが、まずは生きねばならん……!あと少しだ!)


 心臓が破裂しそうなほど鳴り響き、足はもつれそうになる。

 やっと裏門の前に辿り着いた――その瞬間。


 そこに、“影”がいた。


 背を丸めた痩せた男。顔を布で覆い、目だけが暗闇に光っている。

 手には、月光を鈍く返す短い刃。

 静かで、冷たく、そして一言も発さぬ。


「ひ……ひぃっ!」


 息が止まる。

 背中から鞄がずり落ちかけ、慌てて抱え直す。

 私は必死に叫んだ。


「ま、待て! 本だ! 金だ! 欲しいものはすべてくれてやる! だから命だけは……!」


 暗殺者は無言のまま歩み寄ってくる。

 石畳を踏む靴音だけが近づき、刃が月明かりを反射した。


 ――終わった


 そう思った瞬間、大気を裂く蹄の音が背後から轟いた。

 地を蹴り砕く重圧とともに、黒い巨体が影を押し飛ばした。


「ジェンダ!」


 私の愛馬。

 借金に溺れ、領地を手放した騎士から取り上げた、漆黒の軍馬。

 ただの馬ではない。

 その従順さ、野盗に囲まれても一歩も退かぬ勇気――私は幾度もその背で証明されてきた。


 領都を巡るとき、この馬の蹄音こそが私の威光を響かせ、黒々とした鬣の揺れこそが私の権威を見せつけてきたのだ。

 兵も民も、この馬を見れば頭を垂れた。

 ジェンダは、私の地位そのもの。


 そのジェンダが、暗殺者を正面から叩き飛ばした。

 重い音と共に、黒衣の体が石壁にぶつかり、呻きが漏れる。

 

「い、いいぞ……!」


 ジェンダはそのまま私に突進してきた。

「お、おい、待っ……!」

 次の瞬間、外套をがぶりと噛み上げられる。


「うわぁっ!?」


 宙に放り投げられ、私は背の上に叩きつけられていた。

 腹の肉が鞍に乗り、必死に本の鞄を抱えたまま、私は情けなく身をよじる。

 蹄が地を蹴り、視界が一気に流れ出す。


「よくやったジェンダ! か、間一髪だったぞ!」


 安堵と恐怖の入り混じった声が、喉から勝手に飛び出した。

 だが次の瞬間――背後で空気が裂けた。


「な、なんだ!?」


 ひゅ、と短く鋭い音。

 暗がりから、黒い影が三つ、屋根を蹴って音もなく舞い降りる。

 彼らは先ほどの暗殺者の仲間か。皆、顔を布で覆い、目だけが闇に光っていた。


 無言。まるで生き物ですらないかのように、冷たい沈黙。

 だが同時に放たれた暗器だけが、死の意志を雄弁に語っていた。


 夜気を裂いて四条の光が走る。

 次の瞬間、ジェンダの首筋、肩、脚に突き刺さった。


「や、やめろおぉぉッ!」


 私の叫びは、情けなく闇に吸い込まれていく。

 血が噴き、赤黒い滴が私の頬にまで飛び散った。

 だが――ジェンダは止まらなかった。


 巨体は揺るがず、むしろさらに力強く大地を蹴った。

 蹄が石畳を叩くたび、火花が散り、重い地響きが響く。

 黒い液体が塗られた暗器が深く食い込み、筋繊維を裂いてもなお、その脚は前へ進むことをやめない。


 鬣は夜風を切り裂き、燃えるような双眸が紅に光っていた。

 その瞳に宿るのは――主人を生かすという執念。

 それが己の使命だと言っているかのように。


「お前は……お前は私を見捨てぬのだな!」


 涙が溢れた。

 兵達は皆、役立たずだった。

 だが、この馬だけは違う。

 私の誇りであり、唯一の忠臣。

 命を賭して私を守ろうとする存在。

 この俊足なら領外まで振り切れるだろう。


 ――角を曲がる。


 その刹那、視界の先に“それ”は立っていた。

 月明かりを背にした長身の影。

 黒い鎧に、手に握られた剣が冷たく光る。


 その者は微動だにせず、ただこちらを見据えていた。

 顔は闇に沈んで見えぬ。

 だが、その黄金の視線だけで、背筋に氷の刃を突き立てられたかのような感覚が走る。


 誰かなど知らぬ。

 だが分かる。

 この先に待つのは――死。


 刃が月を反射した瞬間。

 風が唸った。


 そして――馬の首が、ジェンダの首が、鮮烈に裂かれた。


 血潮が噴水のように迸り、温かな飛沫が私の顔を覆う。

 ジェンダの体はその巨躯の勢いを止められず、なお二、三歩を駆け、地響きを立てて崩れ落ちた。


「ジェンダぁぁぁ!」


 叫びは掠れ、涙と血に濡れた。

 忠実なる馬は沈黙し、私の逃げ場は消えた。



            ♦



 ──バルド視点──


 剣が月光を裂き、黒馬の首を鮮烈に断ち割った。

 巨体が慣性のまま二、三歩進み、血飛沫を撒き散らしながら崩れ落ちる。

 その衝撃で鞍にしがみついていた男爵は、みっともなく転げ落ち、泥に顔を擦りつけてのたうった。


「……見事だ」


 血に濡れた剣先を払いつつ、俺は呟いた。

 四人のアサシンの毒を受けてもなお走り続け、主を背に最後まで死地を駆け抜けた軍馬――。

 その忠義と胆力は、俺ですら感嘆せざるを得なかった。


「族長……申し訳ない」

 闇からシャドリクが現れ、低く頭を垂れる。

 普段は無言の男が、それだけを口にした。

 駿馬の突破を許したことが、彼にとって痛恨の失態だったのだろう。


「構わん。あれを止められぬのはお前の落ち度ではない。……馬が傑物だっただけだ」

 俺は短く返し、倒れた軍馬に視線を落とす。

 血の匂いが夜風に乗り、鼻腔を刺した。


「ひッ……ひ、ひぃぃっ!」


 その時、泥の中から男爵の悲鳴が上がった。

 小太りの体を震わせ、目を剥き、後ずさりしながらこちらを指差す。


「き、貴様……ま、まさか“レーウェンの黒鬼”!? なぜ私を狙う!? 衛兵は……館はどうなっておる!」


「……“レーウェンの黒鬼”?俺は人間にそう呼ばれているのか。その問いに答えるなら【鷹の目】で全て見ていたからだ。館の周辺で異変があり、逃走を試みる影があった。お前だろうと思い、先回りをした」


 そう淡々と告げると、男爵の顔がさらに蒼白になった。

 唇を震わせ、必死に後ずさるが、背後には屍となった軍馬が塞いでいる。


 俺は剣先をその喉元に向けた。

「――貴様がカズロス男爵だな」


「わ、私を知っているのか……? な、何を……!」


「質問は一つだ」

 俺の声は、夜気を裂くように冷たく響いた。

「黄泉再宴の写しはどこにある」


 男爵の喉が鳴った。


 剣先を突きつけながら問いを放つと、男爵は泥まみれの顔をさらに歪め、歯をガチガチと鳴らした。


「よ、黄泉……? な、なんのことだ……! わ、私は知らん! 知らんのだ!」


 涙と鼻水で顔を濡らし、必死に言葉を吐き出す。

 俺はそれを、ただ冷たく見下ろした。

 この男の言葉に価値はない。


 視線は何度も、自らの背後へと泳いでいる。

 泥に沈み、口を開いた鞄――そこから覗く革装丁の背表紙。

 貴族が抱えるにはいかにも不釣り合いな、黒々とした禁忌の匂いを放っていた。


 俺は鼻で笑い、剣をわずかに傾けた。


「……安心したよ。貴様相手では心を痛めることも無い」


 男爵の目が見開かれ、濁った白目が月光を映した。

 悲鳴を上げる暇すらなく、俺の剣が横薙ぎに閃く。


  切り離された頭部の目は、なおも見開かれたまま――

 驚愕と恐怖の色を宿し、泥に突き刺さった。

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