第21話 鷹の目の代償
──バルド視点──
夜は静寂に満ち、星の瞬きすら遠くに霞んでいる。
男爵邸から漏れる剣戟や悲鳴が、時折断続的に風に乗って響いてくる。
地上では、誰かが松明を落としたのか、草地にオレンジ色の炎がぽつりと灯り、周囲をぼんやりと照らしていた。
俺は馬上から、男爵領全体を見渡した。
外周を囲うオーク兵の布陣と、中央の騒乱の様子は、地上からでもはっきりと感じ取れる。
「グルが上手くやっているようだな」
レンガ屋根が月明かりを鈍く返し、木製の柵が夜風にきしんでいた。
市場の看板は鎖に揺れ、軋む音が静寂に不気味に響く。
商業で栄えた町並み――だが、その外観の華やかさに比べ、防衛はあまりにも脆い。
木の柵は獣避け程度の役にしか立たず、門も商業優先の造り。戦時の備えなど微塵もない。
そして今、その油断が命取りとなっていた。
出入り口は四つの門のみであり、隠れられる場所も限られる。
逃走者は丸見えで、配置したアーチャー隊にとっては、狩猟場に等しかった。
「う~ん見通しは良好!遮蔽物も少ない……族長、弓兵にとってこれ以上ない狩場だ!」
隣にいるテルンが、軽口のように呟いた。
肩に掛けた矢筒から取り出した一本の矢が、月明かりに照らされて冷たく光っている。
彼の目は笑っていなかった。
むしろ、静かに獲物を見据える猛禽のような光を宿していた。
「……だからお前とアーチャー隊をここに据えた」
俺は街を見下ろしたまま、低く言った。
風が吹き抜ける。騎馬隊の松明の火が揺れ、草がざわめいた。
街の奥がいっそう騒がしくなる。
静寂と狂騒が隣り合う……まったく奇妙な戦場だ。
「走る者、叫ぶ者、馬に乗る者……誰であれ、“外”に出る意思を持った者は即座に排除しろ」
「了解。矢の無駄撃ちは嫌いなんでね。……で、族長。もしも相手が女や子供だったら?」
その問いに、俺は一拍の間も置かず、視線を逸らさずに言った。
「例外はない」
短く、だが重く言い切る。
それは命令であり、覚悟の確認でもあった。
テルンは薄く笑い、目を細めただけだった。
それ以上は何も聞かない。
彼は、命令の意味も、その重さも理解している。
だが情に流されることはない。
ガルやザルグとは違ったタイプの戦士。
怒りや激情で剣を振るうのではなく、必要とあれば冷静に、女であろうが子どもであろうが弓を引ける男だ。
己の手を汚すことに、一片の躊躇もない。
それが正しいか否かではなく、戦場において必要とされる“役割”を全うできるかどうか。
だから任せた。彼なら、迷わない。
この包囲戦の成否は、外との接続をいかに遮断できるかにかかっている。
誰一人、何一つ、この街から逃してはならない。
それは単なる“脱走者の処理”などではない。
ここで一人でも逃げ延び、口を開けば――
王国の騎士団が我らの動きを知ることになる。
レーウェンの丘にいる“はず”の我々が、ここカズロス男爵領を襲撃していると露見した瞬間、戦略の全てが崩れ去る。
王国は即座に背後から圧力をかけてくるだろう。
兵を回し、包囲し、殲滅される。
奴らが誇る王国騎士団の槍が、迷いなく我らの背を突く日が来る。
今、我々は王国にとって“視界の外”にいる。
だからこそ動ける。
だからこそ、勝てる。
だがそれも、情報が洩れた瞬間、すべてが瓦解する。
街から発せられる“声”一つが、全軍の死に直結する。
それが今夜という夜の意味だ。
「制圧は順調なようだな」
俺たちは既に三つの部隊を展開している。
弓兵隊は東西南北の全ての門に配置している。
それぞれの射線は、門を一人残らず通過させないように伸びていた。
騎馬隊は南と北から、市街地を“囲む円のように”巡回していた。
歩兵隊は中核部の路地や広場に展開している。
井戸のある広場、狭い裏通り、入り組んだ密集地――逃げる余地がない構造を利用し、逃走の意図のある住民に対し圧力をかけ続ける。
「……20分経過。そろそろ脱走者出ても可笑しくないな」
俺は馬上でゆっくりと目を閉じ、見開いた。
次の瞬間、視界が裏返るように跳ね上がる――。
視野が変わった。
地面から解き放たれ、空へと舞い上がる感覚。脳の激痛とともに、見下ろすような俯瞰映像が左目に流れ込む。
【鷹の目】だ。――道の曲がり、建物の配置、人の動き、部隊の配置――すべてが手に取るように把握できる。
(……東門付近、柵の影に動く影が三つ。……それに北側、宿屋の裏手――走っているな。)
視界を拡大する。
建物の陰に身を潜め、静かに門へ近づくさらに数名の姿が見えた。
いずれも武器は持っていない。恐らくは逃げ出そうとする住民。
だが、理由はどうあれ、“外”を目指す者は排除対象だ。
(逃がすわけにはいかん)
俺は低く、短く命じた。
「アーチャー隊、東門と北側へ再配置。民の影十三、接近中。優先して排除せよ」
数秒の沈黙の後、テルンの声が風に乗って返ってくる。
「了解。目標視認。処理する」
【鷹の目】の視界の中で、配置されたアーチャーたちが素早く移動を開始する。
僅かな遮蔽物を活用し、音もなく、狩人のように狙撃位置へと向かっていく。
その動きには無駄がない。最短距離、最小動作。
まさに訓練された“殺しの専門家”だ。
数秒後――
ピシュッ、と矢の唸り。影が崩れる。
続けざまにもう一人。頭部を貫かれ、そのまま沈んだ。
「助けて……!」
母親が子を抱えて走る。
だが矢が飛び、声は途中で途切れた。
転倒する母の腕の中で、小さな手がまだ必死に握りしめていた。
その指がほどけるより早く、追加の矢が放たれ、二つの体は冷たい土に沈む。
残ったのは、耳に張り付くような沈黙だけ。
【鷹の目】を解除し、現実へと意識を降ろした。
目の前に広がるのは、変わらぬ暗闇と、冷たい風。
「……これは報復だ。我々亜人の領地を奪った人類への罰だ」
声にした。
部隊に向けて……いや、自分に向けて。
だが胸の奥で、鈍い棘のような感覚が疼いていた。
――子どもだった。
武器も持たず、ただ逃げようとしただけの存在。
その命を、俺の命令が奪った。
喉がひとつ鳴る。
痛みとも吐き気ともつかぬ感覚が胸を這い上がり、呼吸が詰まりかける。
(……鷹の目せいか)
俯瞰で見下ろす視界は、戦場を完璧に把握できる。
だが同時に、矢に貫かれて崩れ落ちる者の姿を、一瞬の表情すら見逃さずに焼き付ける。
恐怖で見開いた目。
母の腕に縋る小さな指。
血の中で潰れる声。
戦術的には必要不可欠な異能。
だが――見過ぎる。知り過ぎる。
結果、その全てが俺の胸に突き刺さる。
(……この俺に、まだそんな甘さが残っていたのか?)
人としての断片。
罪悪の芽生え。
それとも――ただの錯覚か。
奥歯を噛み、視線を街に戻す。
仲間のため、未来のため。
俺は血をかぶる。
その痛みを抱えたまま、なお歩む。
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