第19話 略奪者
オーク達の夜。森は闇に沈み、梟の鳴き声すら絶えていた。
カズロス男爵領の街を囲む牧草地は、ただ草のざわめきだけが風に揺れている。
その闇の中を、俺たちオークは影のように進んでいた。
鎖帷子は布で巻かれ、金属音を殺す。馬は口に革を噛ませ、蹄には布を巻いて音を抑えられている。鼻息が白く立ちのぼるが、それすら夜気に溶ける。
――人間どもは眠っている。
南門の見張り台からは欠伸が漏れ、衛兵の槍先が惰弱に揺れていた。家々の窓には灯火が瞬き、男女の声が夜に消える。戦を知らぬ愚者どもの安寧だ。
「……合図を待て」
低く告げると、グルが拳を胸に当てる。
「族長の号令と同時に突入する。歩兵隊、構えろ!」
「応ッ!」鎖帷子の擦れる音が止み、兵たちの息遣いが揃う。
ザルグが大剣を地に突き立てる。
「館の首級は俺が獲る」
「焦るな、ザルグ。現場ではグルの合図を聞け」
「わかってる!」
後方ではテルンのアーチャー隊が弦を張り、矢羽根を擦る乾いた音が小さく連なる。
「矢の数は問題ないね。うん、視界も良好!」
「テルン、逃げ足の早い奴は騎馬隊に追わせろ」
「了解!」
矢筒の中で、白羽の矢が月明かりに冷たく光った。
闇に紛れるシャドリクが、猫のように門前へと忍び寄る。
「アサシン隊、影に徹せ。誰一人通すな」
「了解……」囁きが夜に溶ける。
俺は“鷹の目”で全体を見渡し、最後の命を下した。
「館を制し、男爵の首を落とせば街は崩れる。狙うは住民ではない。脱走者のみ射殺せ」
一瞬の沈黙。次いで重々しい「応!」が、黒い軍勢の喉奥から響いた。
街の灯火が次第に減っていく。眠りの時刻だ。
南門の衛兵は交代もせず、槍を抱いたまま石垣に凭れて居眠りしている。やるならば今だ。
――再びの戦場。言いようのない高揚感。黒い肌が、黄金の眼が、統率者としての威圧感を帯びる。
(……
【スキル:指揮】を発動しました。
発動効果:周囲の味方に戦術バフを適用します。
・対象:指揮下のオルク=ガル戦士団 160名
・効果:武器技量+20%|士気+20%
「征け!」
俺は手を振り下ろした。
その瞬間、森が爆ぜるように動いた。
鎖帷子が擦れ、地を蹴る音が重なり、息遣いが荒ぶ。
グルの巨躯を先頭に、歩兵隊が草原を駆け抜け、闇ごと街路へと突入する。
「歩兵隊、前へ! 列を乱すな!」
「応ッ!」
テルンの矢が唸りを上げ、北門の兵の喉を貫いた。
「うっし命中!アーチャー隊、俺に続け!」
「放てぇ!」
矢雨が南門を覆い、衛兵が血を吐いて倒れる。
「て、敵襲――がッ!」鐘を鳴らそうとした兵士の喉を、シャドリクの刃が裂いた。
「鐘は鳴らせぬ」影に沈む声が残る。
「館まで押し込め! 逃げ道を与えるな!」
俺の号令と同時に、グルが木の門扉を豪快に蹴り破る。
「突入ッ!一直線だ!男爵邸を占拠しろ!」
オークの咆哮が夜を揺るがす。
石畳を蹴る音、女の悲鳴、矢の唸り――人間の暮らしは一瞬で崩れ落ち、街は戦場へと変貌した。
――戦争は始まった。
これは“黄泉再宴”を奪うための、冷徹な殺し合いだ。
♦
カズロス男爵の執務室には、戦の匂いは欠片もなかった。 棚には革表紙の古書が積み重なり、机上には開きかけの年代記。男爵は片手に分厚い本、もう片手に葡萄酒の杯を持ち、油のランプに照らされた文字を追っていた。
「……やはり第三版と比べると、解釈が甘いな。ふむ、脚注が――」
彼はご満悦で鼻を鳴らし、まるで外界など存在しないかのように書物へと没頭していた。
――そのとき。
扉が乱暴に叩き開かれ、乱れた鎧の兵士が転げ込むように飛び込んできた。
「だ、男爵様! 街に、敵が……!」
男爵は眉をひそめ、本を閉じもせずに視線だけを上げた。
「なに? 賊か? 夜盗ごときに何を騒いで……」
「オ、オークです! 数百規模! しかも奴ら、ただのはぐれオークではありません――隊列も整い、指揮が取れております! まるで……軍そのものです!」
男爵の手から本が滑り落ち、どさりと床に落ちた。
「ば、ばかな! オークだと!?奴らは陛下の異種征伐で辺境に追いやられて久しいはずだ! 街の兵は……衛兵たちは何をしておる!」
「応戦しておりますが……あまりに早く……かなりの手練れです……!……レーウェンの丘で第二騎士団を撃退させた連中かと!」
男爵の顔から血の気が引いた。
「な……レーウェン……だと……?まさか……あの“黒鬼”が来てるのか!?……」
わずか一週間前の惨劇。王都近衛や第一騎士団に次ぐ誇り高き第二騎士団が、オークに蹂躙されたという報せは、書簡として彼のもとにも届いていた。王都ではその怪物の噂が駆け巡り、鍛冶屋の倉庫からは護身用の剣や槍が軒並み消え、民は恐怖に震えているという。
だがそれは遠い丘陵での悲劇にすぎない。自分の領地に及ぶはずもない――そう思っていたのだ。
その悪夢の名が、今、目の前の伝令の口から吐き出された。
ありえぬことだ。ここからレーウェンの丘までは強行軍でも一週間かかる。つまり奴らは、戦いを終えるや否や、血煙を振り払い“一直線”にこの街を目指してきたことになる。
――何のために?
男爵の額から脂汗が滲む。
「し、しかし……戦だなど、私は聞いておらんぞ。書状もなければ、理由も……! 何故だ、何故だ……!」
本の収集と講釈ばかりに明け暮れてきた彼には、迫り来る現実の足音が理解できない。
だが窓の外では、すでに悲鳴と怒号が街を呑み込みつつあった。
「ま、まさか……あの写しを狙って……。それだけはダメだ。渡せば王国が……いや、私が……!」
机の引き出しには、金を積んで買い漁った写本の束。その中に一冊――人も国も滅ぼしかねぬ“禁忌”の写しが眠っている。王国に露見すれば一族郎党の処刑は必至。墓場まで隠し通すつもりだった秘密が、今まさに牙を剥こうとしている。
(殺される!オークに奪われても、王国に露見しても!)
男爵は青ざめた顔で言った。
「き、貴族の命優先だ!迎撃は兵たちに任せる。わ、私は先に避難させてもらう!」
「だ、男爵様!……それでは、誰が指揮を執るのですか!?」
机を叩き、脂汗に濡れた顔を歪めて怒鳴り散らす。
「お前が執ればいいだろう!!!兎に角だ!私は一刻も早く退避する!」
男爵は震える指で机の引き出しを乱暴に引き開けた。中からは整然と積まれた羊皮紙や革表紙の写本が覗く。普段なら丁寧に布手袋をはめて扱うそれらを、今はまるで石ころのように掴み、鞄へと無造作に放り込んでいく。
「これも……これも……っ! くそっ、順番が……いや、写しはどこだ!? ああ、あった!」
手に取った一冊を胸に押し当て、男爵は油汗に濡れた顔を歪めた。
「何を呆けている!はやく……はやく馬を用意しろ!」
声が裏返り、執務室に醜く響いた。兵士は唖然としたまま、主君の慌てふためく様子を見つめている。
オークの剣は刻一刻と喉元に迫る。
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