第18話 襲撃計画
森の縁。木々の間に潜む俺たちオークの軍勢は、息を殺して眼下の街を見下ろしていた。
湿った土の匂い。枝葉を揺らす微かな風。戦士たちの呼吸は浅く、油を差した鎖帷子が衣擦れのように微かに鳴る。
――カズロス男爵領の領都。
簡易的な策が囲み、外周は畑と牧草地。街の中心には市場と領主館があり、レンガ屋根が西日に染まって赤く輝いている。人々は平穏そのもの。農夫は畑を耕し、商人は広場で荷を解き、子供たちが駆け回る。戦を知らぬ都市の姿がそこにあった。
俺は“鷹の目”を解き、瞼を閉じる。
街の兵の数は二百にも届かぬ。制度の上では、男爵の私兵は五百まで動員できるはずだ。
それは王国法の定めであり、男爵に限らず、全ての貴族はそれぞれの枠を超えて兵を養うことを禁じられている。理由は明白、謀反の芽を摘むためだ。
爵位を持つ者といえども規定を破れば、剥奪や処刑すらあり得る。ゆえに、カズロス男爵も枠の上限ぎりぎりの兵を抱えることはなく、今は半数以下の兵しか常備していない。平時に五百を揃えるなど財政的にも負担が大きいからだ。
だがそれ以上に、この兵数の根本は――油断だ。
人間どもは、もはや亜人が牙を剥くなど考えてもいない。
彼らにとっての仮想敵は、せいぜい野党か山賊、あるいは森に潜む狼の群れにすぎないのだろう。
異種征伐で亜人から土地を奪い取ったその時から、人間は自らを勝者だと疑っていない。だからこそ、この街に防壁はない。見張り台に立つ兵の視線は、外ではなく街の中に向いている。
――慢心。それが、この男爵領全体を覆っていた。
「ならば、奪うは容易い」
背後で枝がわずかに揺れた。黒革の軽鎧に身を包んだシャドリクが、影のように現れる。オーク・アサシンのまとめ役。フードから覗く瞳が、鋭さを際立たせていた。
「族長、偵察の報告を持ち帰った」
「ご苦労」
シャドリクは短く頷き、低声で告げた。
「南門には衛兵が二十名。農兵が十余り。北門は手薄、五名ほど。館の裏手には見張りは確認できず。街路は狭く、馬の突入には不向きだ」
俺は「鷹の目」で見た景色と照らし合わせる。報告は正確だ。だが、補わねばならない点もある。
「櫓と屋根に潜む兵を見落としている。奴らは外ではなく街内を見ている。暴動を警戒しているのだろう」
シャドリクの眉がわずかに動く。
「……俺の目では拾えなかった」
俺は首を振った。
「お前達の目は地上の現実を映す。俺の『鷹の目』は空からの俯瞰においては万能だが、建物内や入り組んだ路地の死角までは見通せぬ。だから現地での偵察は必要不可欠だ。互いの情報が合わさってこそ、戦の完璧な地図となる」
シャドリクは黙って頷いた。その背後では、戦士たちが静かに武器を磨き、鎖帷子に油を差している。緊張の息遣いが森に溶け、刃の研ぎ音が規律を刻む。
俺は戦利品の羊皮紙に簡易の地図を描く。
「兵の数は二百に届かぬ。北門は手薄。館の守りも薄い。だが街路は狭く、馬は使えぬ。……ならば歩兵で一気に館を制圧し、指揮系統を断つのが最も効率的だ」
周囲に集まった戦士たちが、真剣な眼差しを俺に注ぐ。
「加えて、外に逃げる住民も最小限に抑えておきたい。騎士団の本隊が未だ我々の所在がレーウェンにあると思っている今、情報が洩れて背後を強襲されるのは避けたい」
若い者の指がわずかに震え、呼吸が浅くなる。その緊張を俺は見逃さない。
「恐れるな。戦は数ではなく、準備と策で決まる。俺たちはただの群れではない。影を這い、牙を突き立てる軍だ」
そう言い切り、俺は街の方角を睨んだ。
――黄泉再演の力を手にするのは、この街を掌握した後だ。まずは男爵の住む館を制し、街の防衛機能を無効化する。
「グルは現場指揮を頼む。ザルグを筆頭にソルジャー隊と歩兵隊は館の制圧に移れ。テルンのアーチャー隊と騎馬隊は領都の外周に展開、脱走する領民を射殺せ」
俺の言葉に、森の空気がわずかに震えた。
「任せろ!」とグルが低く吼え、胸を叩く。
ザルグは牙を剥き、刃を握りしめた。
「おう!館を獲れば勝ちは決まる。必ずや首を獲ってみせる」
弓を背負ったテルンは、静かに頷きつつ口角を吊り上げる。
「族長、走る背中を射るのは得意だよ~」
周囲の戦士たちもまた、鎖帷子を鳴らしながら短い咆哮を上げる。
「シャドリクのアサシン隊は館の裏門を抑えろ。万が一、男爵本人やその家族が逃走した場合は首を刎ねろ」
「……了解」シャドリクは短剣を手で遊びながら、フード越しに頷く
夕陽が沈み、街の窓々に小さな灯がともり始めていた。煮炊きの煙が屋根の間から立ちのぼり、どこかから子供の笑い声が響く。
南門の兵士は槍を地に立てかけ、気怠そうにあくびを漏らす。見張り台の衛兵は下を歩く娘に視線を送り、外にはもう注意を払っていない。
街は眠りに備え、何の疑念もなく一日を終えようとしていた。
「時は夜――闇は我らの味方だ」
暗い森でオークたちの瞳が赤く光り、静かな息遣いが戦の幕開けを予告していた。人間の目には、もう街路の端すら見えぬだろう。だがオークの瞳は、夜の帳を切り裂く。
「オルク=ガル、進軍を開始せよ。慢心しきった人族に恐怖を刻み込め!」
俺の言葉に、戦士たちの息が一斉に深くなった。
刃を研ぐ音が止み、代わりに静かな気配だけが森を満たす。
この夜、カズロス男爵領の平穏は終わる。
そして我らオークの戦は始まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます