第15話 敗軍の将
──人間側・第二騎士団視点──
敗走の列は、屍の群れに等しかった。
黒煙の立ち昇る砦を背に、疲弊しきった兵らは悪路を進む。靴は泥に吸いつき、鎖帷子は切れた輪から赤錆を流し、折れた槍を杖代わりにして歩む姿すらある。呻き声、喚き声、乾ききった喉から洩れる咳――そのすべてが敗残の証だった。
騎士団長ロダンは馬上からその姿を見下ろし、胸中に鉛のような重みを抱えていた。
名誉ある常勝の第二騎士団。勇を以て知られた剣盾の軍勢。だが今や、その影もなく、瓦解した群れに過ぎぬ。己は敗れたのだ。オークに――否、ただのオークではない。漆黒の巨躯、血煙を裂いて進む異形の軍勢。その計略の下に、誇り高き部下たちがいかに斃れていったことか。
「……団長」
声をかけたのは若き従騎士だった。プレートアーマーの肩口は裂け、血が滴り落ちて馬の首筋を赤く染める。握る槍の穂先は半ばで折れ、ただ棒きれのように頼りなく揺れていた。
「見ましたか、あれを……黒き怪物とその軍隊を。やつらに槍を砕かれ、盾ごと叩き伏せられました。あれはオークでは……ただのオークではございません……!」
「黙れ!」
ロダンは鋭く叱責した。
「畜生の群れに後れを取ったは、俺の不覚ゆえ! 怪物などと怯え、武門を汚すな!」
だが、その声音の震えを兵らは聞き逃さなかった。列の後方から、怯えを帯びた囁きが広がる。
兜を失った兵が、煤に塗れた顔で呟く。
「あれは……鬼だ。燃え盛る黒煙を背に、悪逆の限りを尽くしていた!」
背負い袋を失い、食糧の欠片すら持たぬ弓兵が歯を噛みしめて叫ぶ。
「そうだ! あの古砦で塔を崩落させたのも奴だ!」
血に塗れた片腕の歩兵が吐き捨てる。
「俺の仲間が……親友が死んだ! 形見も死体も残ってない!」
肩をすくめて歩く槍兵は、槍を強く握りしめ呻く。
「勝てるはずだった……あのオークさえ、いなければ……」
その時だ。誰かが、息をひそめるように呟いた。
「――レーウェンの黒鬼」
それは全員の声なき代弁だった。重苦しい沈黙が、兵の列を覆う。
「………。」
その沈黙を裂いたのは、副官フレイの声だった。
汚れた鎧の隙間からは包帯がのぞき、腰の剣は刃毀れで無残に欠けていた。疲労の色濃い目で前を睨み据え、馬を寄せてくる。
「団長、兵らはもう限界です。食料も水も尽きかけ、背嚢は砦に置き去りにしたまま。行軍はもはや形ばかり……。」
ロダンは唇を噛んだ。己の無策が兵をこの有様に追いやった。砦奪還の失敗だけではない。誇りすら削ぎ落とした敗走の列を、彼は率いている。
「フレイ……我らはまだ、戦えるのか」
問いは苦悩を滲ませた囁きとなった。
副官はわずかに目を伏せ、しかし声を絞り出した。
「戦える者は……おります。だが兵の心は折れかけています。彼らの口から出るのは怪物の名ばかり。……団長、悔しいですが立て直さねばなりません。我らがまた剣を振るうには多少の時間が必要です。……王都に帰還しましょう」
ロダンは無言のまま、背後の列を振り返った。
折れた槍を杖にし、泥にまみれながら歩む兵ら。甲冑の継ぎ目から雨水のごとく汗を垂らし、痩せた馬の背で揺れる従騎士。皆が皆、目に恐怖と疲弊を宿している。
「わかった。この状況での継戦は不可能だろう。兵たちは一日でも早く家族の元に送り届けよう。従軍報酬の分配についてはフレイに一任する」
「承知いたしました。団長は王都に着いてからどうされますか?」
「軍法会議だ。知っているだろう?無論、逃げも隠れもしない。この責任は俺一人で取ろう」
それでも――己は団長だ。彼らを率いる者だ。
胸奥の鉛が、さらに重く沈んでいった。
♦
王都ハルデンシュタインの大広間は、夜更けにもかかわらず明かりが絶えることはなかった。燭台に並ぶ炎が、磨き上げられた白大理石の床を鈍く照らし返す。だがその光は温もりを持たず、冷たい緊張だけを会議の場に満たしていた。
騎士団長ロダンはその中央に跪いていた。鎧は砕け、肩当てには割れ目が走り、胸板には人とオークの血が乾いてこびりついている。遠征から戻って四日、彼とその残兵には鎧を改める暇すら与えられなかった。敗北を背負った姿のまま、王と宰相の前に引き据えられている。
宰相エルヴァンが立ち上がる。紫の法衣をまとい、銀縁の杖を床に打ちつけた。その音が議場を支配した。
「──ロダン卿。そなたの軍は二千を率いて数百の獣どもに敗れ、壊走した。
これはもはや采配の拙劣では済まぬ。国の威信を傷つけ、民心を揺るがせた大罪である」
声は刃のように鋭かった。兵や諸侯の列からざわめきが洩れる。
「しかも、ただの敗北ではない。民や兵は“レーウェンの黒鬼”なる怪物を口々に語る。前線ではない、この王都でだぞ?ロダン卿、汝は一体何をしていた?」
ロダンは頭を垂れ、重苦しい沈黙を貫いた。唇に浮かぶ鉄の味が、敗走の記憶を呼び覚ます。黒々とした巨躯のオーク、その計略により命を失っていく部下たちの姿。思い出すだけで胃の奥が焼ける。
(黒いオーク、奴は何者なんだ……?)
黒。闇を塗りつぶすような黒い肌。それは
――こんな伝承や御伽噺めいた話を、王や宰相に報告してよいものだろうか。
もし事実として伝えれば、国中が騒ぎ立ち、軍の士気にも影響する。だが、隠せば現場で戦う者たちの安全が脅かされるかもしれない。黒きオーク――レーウェンの黒鬼の存在は、単なる逸話ではなく、目の前で己たちが敗れた現実そのものなのだ。
「………。」
だが、沈黙が答えだとでも言わんばかりに宰相は続けた。
「陛下、300の兵を損ない、御身の常勝の歴史に泥を塗った罪は重いでしょう。彼の地位を剥奪し、しかるべき処断を」
王座に座す老王ヴァリオスⅢ世は眉をひそめた。白髪を冠で押さえつけ、重々しく息を吐く。
「……ロダン。汝の武勇は、我も知っておる。だが結果は無惨だ。我が構想、異種征伐に敗北を許さぬ」
広間は水を打ったように静まり返った。将官たちの視線がロダンに突き刺さる。
「処刑にはせぬ。ただし、もはや団を率いる資格はない。ゆえに、騎士団長を解任する」
ロダンの胸に突き刺さる言葉。だが表情は微動だにしなかった。
「加えて……」王は続ける。「貴殿に王命を言い渡す。異種征伐の最前線へ赴け。オークどもが築いた最大の防衛拠点――“マグ=ホルド”の攻略に従軍せよ。汝に与える機会はそれ一つだ。国を辱めたならば、武で雪げ」
宰相エルヴァンは冷笑を浮かべ、杖を軽く床に叩いた。
「賢明なる御裁定」
その声に、誰も異を唱えられない。敗残の将をかばえば共に疑われる。それがこの場の空気だった。
ロダンは膝をつき、低く答えた。
「御意」
王は視線をそらし、宰相が議を閉じる合図をする。広間を出る兵の足音が響き、やがて残されたのはロダンと副官フレイのみとなった。
廊下に出ると、夜風が鉄の匂いを吹き散らした。石壁に吊るされた松明の影が、二人の顔を赤黒く染める。
フレイはまだ裂けた鎖帷子を纏っていた。膝には応急の革当てが巻かれ、剣の鞘は欠けている。彼は怒りを抑えきれずに吐き捨てた。
「……あの宰相め、すべてを押し付けるなど! 補給を最低限で出陣させたのはエルヴァンとその側近だというのに!アレ相手では誰が率いても……!」
言葉を切り、拳で壁を叩いた。血が滲む。
ロダンは静かにその手を押さえた。
「フレイ」
低い声は廊下の闇に沈むように響いた。
「備えておけ」
それだけを告げる。
フレイは息を呑んだ。団長の目に、まだ炎が宿っているのを見たからだ。敗北を背負い、地位を奪われ、なお燃え続ける焔が。
副官は深く頷き、唇を結んだ。
「はっ」
石廊下を行く二人の足音が、夜の王城に重く響いた。
その先に待つのは異種の牙と爪、そして国が押し付けた最前線――マグ=ホルド。
だがロダンの胸中にはただ一つ、揺るぎなき誓いがあった。
再び立ち上がり、レーウェンの黒鬼をこの手で討つ。
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