幕間 名無しのオーク
俺はオーク。名前のない、ただのオークだ。オークの掟じゃ、一人前の戦士として認められて初めて名前をもらえる。けど、俺にはまだその時は来ていない。
群れの中じゃ半人前で、誰も俺を戦士だなんて思ってくれなかった。剣を振っても遅いし、力も弱いし、オークにしては背も低い。狩りでは兎一匹仕留めることも出来ず、仲間に笑われるのがいつものことだった。悔しいけど、俺にはどうすることも出来なかった。
……そんなある日だ。
「どこだここ?ずいぶん遠くまで来ちまった」
獲物に逃げられて不貞腐れて帰ろうとしたとき、俺は見ちまったんだ。群れから浮いているはぐれ者――黒いオークのバルドが、ひとりで弓を引いているのを。
弓なんて俺らガル部族じゃ、せいぜいが威嚇の道具だ。力こそがオークの誇りだって、みんな言ってた。だから俺は、弓なんか弱者の武器だと思ってた。
でも違った。バルドの放った矢は風みたいに速く、音もなく獲物の首を射抜いた。力で押し潰すんじゃない。無駄もなく、ただ正確で、美しかった。あんなの見たのは初めてで、息を呑んじまった。矢が放たれるたびに、筋肉のきしむ音まで聞こえるようで、雷みたいに胸を打った。
風が頬を撫でた。
――あぁ、俺もああなりてぇ。
剣じゃ誰にも勝てねぇ。力もねぇ。なら俺は、あの弓をやるしかねぇ。そう思った瞬間、心臓が熱くなったんだ。
俺はそれから、毎日のように森の外れへ通った。バルドの弓の引き方を盗み見て、真似した。腕はすぐに痛くなるし、矢は地面に突き刺さったり、真上に飛んだり、散々なもんだった。でも、あの光景を見ちまった以上、もうやめられなかった。
――俺には、これしかねぇから。
ある日のことだ。今日も今日とて、バルドの弓を見に来た俺の背後で低い声が響いた。
「……いつまで覗いている気だ」
全身が跳ね上がる。振り返れば、冷ややかな眼をしたバルドが腕を組んで立っていた。逃げ出したい衝動に駆られながら、足がすくんで動かない。怒られる、殴られる、追い払われる。そんな恐怖しかなかった。
「貸せ……矢を腕力で放つな。背中を、全身を使え」
ぶっきらぼうにそう言って、俺のへぼ弓を取り上げる。次の瞬間、バルドの放った矢は、俺が何度も外した木の幹に深々と突き刺さった。矢羽がまだ震えている。俺は息を呑んだ。
「見て学ぶのも悪くないが、死ぬほど遠回りだ。……明日も来い」
そう吐き捨てるように言うと、バルドは背を向けて歩き出した。けど俺には、それが「教えてやる」って言葉に聞こえた。
次の日も、そのまた次の日も、俺は森へ通った。バルドは毎回、仏頂面で待っていた。
「弦を引くな、まずは握りを直せ」
「狙う前に呼吸を整えろ」
「おい、手首が死んでるぞヘタクソ」
罵声にしか聞こえねぇ言葉を浴びせられながら、何百回も弓を引いた。指の皮は破れて血だらけになり、肩は燃えるように痛んだ。けど、不思議と苦しくはなかった。やっと俺にも「やるべきこと」がある気がしたからだ。
やがて、矢は木の幹に当たり始めた。さらに数週間もすれば、狙った位置に刺さるようになった。
「よっしゃあ!」
「……まぁ……悪くない」
当たるたびに胸の奥が熱くなる。俺は、群れの誰にもできなかったことをやっている。この道を究めれば、俺もいつか本物の戦士に成れる。そして俺は、あの人から名前を貰うんだ。
「バルドさん!俺上手くなったよ!」
つい口に出してしまった。思わず敬称をつけたせいか、バルドは眉をひそめて振り返る。
「“さん”はやめろ。人間みたいで気持ち悪い」
「で、でも……!」
「俺ははぐれ者だ。バルドでいい。敬うなら武勇で示せ」
――俺はそれでも、胸の奥で熱く誓った。たとえウザがられても、たとえ怒鳴られても、俺は追いかけ続ける。俺にとって彼は、師であり、道であり、――戦士としての光そのものだからだ。
だから俺は、矢を放ち続ける。名前をもらうその日まで――。
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