第13話 戦士
──昨夜の襲撃で、人間の補給物資は七割が炎に呑まれた。
食糧も矢も衣も、すべてが燃え尽き、残ったのは焦げた木片と黒煙の臭気ばかり。
敵軍は、満足に兵を養うことさえできぬはずだ。
その事実を冷徹に見抜くのが、黒きオーク・バルドであった。
「……長くはもたぬ。腹を満たせぬ兵は、剣を振るう前に崩れる」
中央塔の指揮所に低く響いた声が、同族たちの胸を震わせる。
だがオーク側も余裕はない。備蓄は乏しく、口にできるのは干からびた肉片や野草だけ。それでも弓を構え、朝焼けの戦場を挟んで陣を崩さずにいた。
矢筒は空。
だが、バルドの指示で交代制のシフトは維持され、弓兵たちは弦を張ったまま敵陣を睨み続ける。
今までの戦果で築いた威圧感――虚勢に見えぬ重圧こそ、いま彼らの最強の武器だった。
その威圧を誰より体現するのがバルド自身である。
彼は干し肉や備蓄に頼らず、夜陰の中で戦場に散った人間の死体を解体し、骨を噛み砕き、血肉を腹に収めていた。
金色の瞳が光に照らされるたび、他のオークたちは畏怖に身を震わせる。
──人間を喰らう指揮官。強さの探求と壮絶な覚悟の体現者。
その存在が、いま戦意を支えていた。
睨み合いは三日三晩に及ぶ。
戦場は静かだが凄絶な緊張に包まれ、弓を握る手は硬直し、指先に痛みが走る。筋肉は疲弊し、肩は緊張のまま微かに震える。
太陽が昇れば熱気で汗が流れ、夜が来れば冷気が体を刺す。
血と焦げた匂い、湿った土の匂いが混ざり、呼吸のたび喉を刺激する。浅い眠りは感覚を鈍らせ、集中力を蝕む。
人間もオークも同じだ。視線だけの殺し合いでも神経は最大限に張り詰め、呼吸は乱れ、盾を握る手は疲労で震える。長時間同じ姿勢を強いられた足の裏の豆は血で滲んだ。
それでもオークたちはシフトを守り、弓を構え敵を睨む。
皆が理解していた――相手が本格的に攻めてこないのは、バルドの策を恐れているからだ。
疲労で思考が鈍る者も、バルドの金色の瞳に戦意を支えられる。
バルド自身も、三日三晩眠ることはなかった。
人間の陣形や伏兵を確認するため【鷹の目】を発動し続ける。
魔眼の連続使用は命の危険すらある行為だが、鉄の意志で痛みを殺し、戦場を掌握した。
飢え、疲労、緊張――すべてが渾然一体となり、戦場に独特の重さを生む。
足音、呼吸、盾や弓の摩擦音――あらゆる音が異常に大きく感じられ、焦燥と恐怖が交錯する。
三日三晩の睨み合いは、戦士たちを肉体と精神の限界へ押しやった。
四日目の朝、それは唐突に訪れた。
人間の陣がざわめき、旗が揺れ、荷駄が引き出され、兵が後方へ退き始める。
武器や袋が引きずられ、馬が嘶き、兵たちは足元の泥や残骸に躓き、盾や武器をぶつけ合いながら後退する。
オークたちの間に歓声と嘲笑が轟く。
「見ろ、人間どもが逃げていく!」
「おいおいおいおい!」
「あいつら尻尾撒いて逃げやがった!」
片目のグルが歯を鳴らし、バルドに問いかける。
「バルド、偽装退却じゃねぇのか?」
「それはないな。ここから補給地点まで三日以上かかる。物資も既に限界のはずだ」
馬が荷駄を蹴飛ばし、兵が槍を引きずりながら走る。後退は恐怖と混乱によるもので、俯いた兵の顔には濃い疲労が浮かぶ。傾いた荷駄の袋が崩れ、食糧や矢が地面に散乱する。
オークたちは歓喜し、腕を振り上げ叫ぶ。
「逃げるな、逃げるな人間ども!」
「はっはは!やってやったぜ!」
片目のグルが息を整え、バルドに訊く。
「追撃戦は?」
「フッ、するわけない。お前たち、勝鬨を上げろ!!」
オークたちは一斉に腕を振り上げ、地響きのような声を上げた。
長い防衛戦の終止符だ。喉の渇きも空腹も、誰も気にしない。男も女も老いも関係なく、戦士たちの熱気が戦場を満たす。
「俺達勝ったのか!?」
「ざまぁみやがれ!人間!」
「しゃああ!!!」
グルは拳を握りしめ、喉の奥から渾身の咆哮を上げる。
ソルジャーは剣を天に掲げ、アーチャーは肩を組み、弓を振り上げて拳を突き出す。
小柄なアサシンたちも跳ねるように喜び、互いに肩を叩き合う。
バルドはゆっくりと剣を置き、【鷹の目】を解除する。目の奥の緊張が徐々に解け、金色の瞳に安堵の光が戻った。長時間の魔眼使用で張り詰めた神経が、初めて深く息をつく。
「……やっと、終わったか」
低く呟き、戦場を見渡すバルドの唇が、わずかにほころぶ。手の震えも消え、肩の力が抜ける。戦士としての鋭敏さは失わずとも、今は歓喜をかみしめるひとときだ。
傍らのオークたちも歓声を上げ、勝利の熱気に包まれる。バルドはその姿を見て微かに笑み、拳を軽く握った。己だけでなく、仲間たちと共に生き抜いた。この瞬間に結実したのものを深く噛みしめる。
もうバルドを侮る者は誰もいない。
スログの死によって諦めた生存を、この男が変えたのだ。
それは勝利だけでなく、力を妄信するオーク達に新たな
歓喜の中、オークたちは血と泥にまみれた体で抱き合い、その視線は自然と偉大な指導者の黒き背中を見据える。
──壁際に身を寄せ合う獣は、この日を境に誇り高き戦士となった。
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