第7話 炎の回廊
砦の空気が、またひとつ、変わった。
俺は静かに手を上げた。重傷者を除くすべてのオークが、命じられた配置につく。
「東塔を、焼き場にする。準備にかかれ」
その一言で、彼らは動き出した。
火矢はもう残っていない。だが、潤沢とは言えないまでも、火計を遂行するには十分な油が残っていた。
火矢の代わりに用意するのは、火炎瓶──この世界には存在しない、俺だから使えるアドバンテージ。
獣油に松脂と布を詰め込んだ即席の焼夷兵器であり、瓶の代わりには塔に放置されていた酒壺や薬草の保管瓶を転用する。
現実世界でも作成が容易であり、物資の乏しいゲリラや反政府組織が多用したことで知られる。密閉空間や可燃物が多い場所で致命的な被害を与えるため、今回の作戦で採用した。
「瓶の口には布を巻きつけろ。着火後すぐ投げる。手早くな」
「おう!」
怒声が飛び、動きが加速する。誰もがその先に、死か、生かを意識していた。
東塔の内部では、床板の一部が剥がされ、燃焼を促すための可燃物が敷かれていく。
壊れた家具、干し藁、古布、積み上げられた木箱、冬季用の油──火の通り道となるよう、通路の中央に長く伸ばしていく。
「連絡通路はどうする?」
「中央塔との境には、厚板と鉄材でバリケードを築け。煙と火を通すな。ここが焼ければ、全員巻き添えだ」
「了解ッ!」
東塔と中央塔は通路で繋がっている。構造上、塞ぎきれない隙間もあったが、濡れ布と石灰を詰めることで応急処置は施せる。
火は最も原始的な武器であり、最も完成された戦術でもある。
かつての地上には、城を自ら焼き払って敵を欺き、兵糧を燃やして撤退する戦術が存在した。
焦土戦術と呼ばれ、退路も矜持も焼き尽くすそれは、戦術というより“災害”に近い。
さらに言えば、火計は知略を尽くす者の証明でもあった。
地形、風向き、湿度、時刻……それらすべてを読んだ者のみが、火の力を手中に収めることができる。
「バルド、開門の時は?」
グルが問う。声には緊張が混じっていた。
「今すぐだ」
──人間側・先鋭騎士隊視点──
東塔の門が、開かれていた。
それはあり得ぬ光景だった。
数刻前まで、徹底して守りに徹していた敵が──突如、扉を開けた。まるで「どうぞ」と言わんばかりに、砦の心臓部へと誘っている。
だが、これはチャンスでもある。敵の首魁さえ打ち取ることが出来れば、あとは烏合の衆と化すだろう。オークという力を信奉する種族が組織立って抵抗してくることがそもそもおかしいのだ。
「前衛、散開。斥候、五名。階段を確認しろ」
「了解」
先鋭部隊を率いる熟練騎士マルコスが、静かに命じる。
精鋭部隊に選抜された百騎は、誰もが戦いのエキスパートとして知られる人物で構成されていた。
籠城戦・市街戦を想定した訓練を積んでおり、あらゆる状況を想定し、密集を維持しつつ慎重に進んだ。
「オークどもめ、こんな場所に住み着きやがって」
階段は急角度で続いている。
古びた石壁には苔がこびりつき、所々に経年の亀裂が走っていた。踏みしめるごとに埃が舞い、時の流れを静かに語っていた。
「伏兵や罠は見つかったか?」
「……一階、異常ありません。引き続き二階の偵察に向かいます」
先に登った斥候の一人がそう囁き、闇の中へと姿を消す。
「同じく異常なし。」
続いて二人目が、階段を登りきったはずだった。
だが──
その後、連絡が完全に断たれた。
「……応答しない?」
マルコスの眉が動いた。
「……斥候に何かがあったのか」
「伏兵か!?」
「隊長、ここは一度戻るべきでは!?」
騎士たちの間に、見えない緊張が走る。
数歩先の闇が、何かを飲み込んでいるように思えた。
マルコスは予備の斥候を送るが、結果は同じだった。半刻を過ぎても、彼らが戻ってくることはなかった。恐らく、二階を登った先。東塔と中央塔の連結部分に何かがいる。
(追加の斥候も戻らんか……)
心に浮かびかけた不安を、マルコスは無理やり鎧の奥に押し込めた。
恐怖に膝を折る者など、百騎の指揮官として失格。
この戦は勝てる。勝たねばならぬ。そうだ、相手はオークだ。突撃しか能がなく、ロクに武器も扱えぬ人以下の獣だ。
これまでの出来事はただ運が良かったに違いない。
「……突入する。我らが沈黙している間にも、本隊は包囲戦を続けている。ここで立ち止まるわけにはいかん」
マルコスが剣を抜き、先頭に立つ。
「密集陣形、維持。盾を前に。階段、駆け上がれ!」
鉄の音が一斉に鳴り、騎士たちは一気に階段を駆け登る。
足音が重なり、盾と鎧が軋む。次々に踊り場を越え、連絡通路へと突入する。
そして──彼らは見た。
バリケード。
木材、布袋、壊れた盾を積み重ねた障壁。その隙間から、複数の瞳がこちらを見ていた。
「……オークどもが、居る……!」
次の瞬間、バリケードの奥――その中心から、ひときわ異質な影が、すっと歩み出てきた。
黒い肌。金色の瞳。
血と煤にまみれながらも、どこか冷たい気品すら漂わせるその姿に、騎士の一人が息を呑んだ。
「……黒い……オーク……?」
金の双眸が、ゆらりと騎士たちの列をなぞるように動き、手を上げた。
「──投擲開始」
──瞬間、火が、降ってきた。
火炎瓶。
獣油と松脂を詰めた瓶や壺に布を巻き、火をつけた即席の焼夷兵器。
空中で火を揺らしながら飛来し、床に砕けて爆ぜた。
床に散らばった油が炎を吸い上げ、瞬く間に通路全体を飲み込んでいく。
煙が唸りを上げ、視界が紅蓮に染まる。
「っ……下がれ! 隊列を……っ!!」
叫びも、途中でかき消された。
二本目、三本目……火炎瓶が次々に投げ込まれる。密集していた隊列は逃げ場を失っていた。
火が喉を焼く。煙が肺を満たす。
そして──
肉が焼ける匂いが、鼻腔を突いた。
人の焼ける匂いだった。
皮膚が燃え上がり、脂が弾ける音。焦げた髪の匂いが、黒煙とともに押し寄せてくる。
「ぐああああっ!」
「熱っ、足が……ッ!」
「誰か、誰かあああ──!」
鉄の鎧の中で焼かれていく苦鳴。倒れた騎士が呻きながら転げ回り、炎に包まれていく。
その後に残ったのは、黒焦げの回廊と、焼け落ちた鉄の匂いだけだった。
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