第6話 紛い物
──オーク側・バルド視点──
戦争開始から数刻、遂に矢が尽きた。
砦の武器庫に残っていた分も、死んだ仲間の遺品も、もう底をついていた。
壁際に身を寄せるオークたちは、布を裂き、傷を縛り合いながら、時折外の様子をうかがっていた。
疲れきった目が、次の命令を待っている。いや、それ以上に「次はどうなるのか」と、誰もが不安に苛まれていた。
新兵の火弓を握っていた手には火傷が残り、矢筒は空。古参の巨弩を引いた腕には裂けた筋肉が浮かんでいた。
一時的な優勢も長くは続かなかった。その沈黙のすべてが、指揮官である俺にのしかかってくる。
砦の中庭は、血と油と焼け焦げた臭いで満ちていた。
崩れた西塔の影が伸び、夕日が赤く残骸を照らしている。
どこかで石が崩れる音がした。敵のものか、味方のものか。それすら誰にも分からない。
魔術師団の崩壊。敵主力の二割殲滅。物資や荷馬車の狙い撃ち。
――これがゲームだったなら、既に勝利条件が満たされていたはずだ。
俺は、歯を食いしばった。
この世界が《TALISMAN ~タリスマン~》だと確信した時、
祈祷室で、あの肉を喰らい、彼を弔った夜。力を継承した俺は、《指揮》というスキルが脳裏に浮かび、知らぬはずの戦術が頭の中に焼きついていた。
スログ――オークの英雄へと至るはずだった存在。
ゲームの中では、彼がこの砦を守り、仲間を導き、勝利を積み重ねていった。
その軌跡をなぞるように、俺もここまで戦ってきた。西塔を崩し、火弓で混乱させ、巨弩で魔術師を貫いた。すべてはあの物語を現実に落とし込んだだけの勝ち筋だった。
だが、俺自身はその物語に存在しない。
設定にも登場せず、台詞もイベントも与えられなかった。
ただの、バグのような存在――ゲームの枠外から滑り込んだ、異質な何かだ。
……それでも、俺はここにいる。
砦の壁に傷ついた仲間たちが寄りかかり、沈黙の中で俺を見上げている。
疲れきった瞳と、火傷と、空になった矢筒。
その視線のすべてが、次の一手を俺に求めている。
何の因果でこの肉体に宿ったのかは、わからない。
だが、
俺は立ち上がり、砦の壁際にある割れた覗き窓へと歩を運んだ。
ここからは、敵の布陣が一望できる。
遠くの丘に点在するのは、数を減らした人間の陣。
魔術師団の中核は崩壊したとはいえ、敵の数はまだこちらの数倍近くいる。騎士団の半数以上はなお健在で、弓兵も残っている。
何より、敵はまだここにいる。撤退せず、こちらを見据え続けている。
主人公が死んでも、イベントは終わらない。ゲームオーバーは一向に訪れない。
分かっていた。これは、もうゲームじゃない。現実だ。
敵も馬鹿ではない。自分たちが圧倒的に優勢であると分かっていれば、多少の犠牲が出ようが、撤退などするはずがない。そういうものだ。勝ちに行く側は、躊躇わない。
いつの間にか、拳を強く握りしめていた。爪が皮膚に食い込み、うっすらと血が滲んでいる。
(……悪い癖だ)
そうだ。俺の挙動が、言葉の一つ一つが仲間の士気に関わる。
ならば、俺が不安になるわけにはいかない。
俺の命令に命を預けてくれた彼らの為にも、ここで引くわけにはいかない。
“紛い物”でも構わない。
この砦を、仲間たちを──スログの代わりとしてではなく、俺自身の意志で守るのだ。
腹は決まった。
《TALISMAN ~タリスマン~》をやりこんだ俺は、この世界の情勢、イベント、戦力バランスをある程度熟知している。
それこそが、
だからこそ、見える手がある。
常識からすれば愚策に見えるかもしれない。だが、異物だからこそ――引ける一手だ。
俺は、深く息を吐いた。
そして、振り返り、静かに口を開いた。
「……東塔を、開門する」
一瞬、誰もその意味を理解できなかった。
だが、グルだけは目を見開き、呻くように声を上げた。
「ば、馬鹿な……東塔はここ中央塔に繋がってるんだぞ!あそこを開けたら、奴らがなだれ込んでくる……!」
「その通りだ」
俺は頷く。
「なら!」
「これまでの策により、敵の狙いはこの砦の奪還から、俺の首を打ち取ることにシフトしたはずだ。奴らにも補給はあり、制限時間は存在する。例え罠の可能性を勘ぐっても『勝てる』と思った瞬間に、突っ込んでくるはずだ。敵がオレの策を評価していれば、先鋭を編成して突入させるだろうな」
「それは確かか?」
かすれた声が飛ぶ。肩に矢傷を負った大柄のオークが、血で濡れた包帯を押さえながら睨んできた。
「ああ。ならば、そこに――棺を用意しておけばいい」
「棺……?」
若いオークが、煤にまみれた顔を上げる。顔の左側に火傷の跡が残っている。火弓を最後まで放ち続けた者だ。声は震えていたが、目だけは真っ直ぐだった。
「東砦そのものを、燃やす。敵を中へ誘い込み、一網打尽にする。そして見せつける。砦の外にいるすべての兵に、火に包まれ、黒煙に沈むその光景を」
俺の声は冷えていた。だが、心は熱を帯びていた。
「これは戦術じゃない。意志の戦いだ。敵の心を完膚なきまでにへし折る。……それこそが我らの勝利への道となるだろう」
しばしの沈黙の後、誰かが唾を飲んだ音が聞こえた。
片目に包帯を巻いた斥候の男が、鼻を鳴らすように言った。
「……やれるもんならな。だが油は残ってるのか?」
「火矢を作った際の余りと、冬季用の備蓄を全て使いきることになる」
俺は肩をすくめ、冗談めかして言葉を続けた。
「――だがまあ、オークの強者には、暖など不要だろ?」
その言葉に、大柄なオークが喉を鳴らして笑った。
「ガハハハ! 違ぇねえ!」
笑いが一つ起きると、砦の空気にわずかだが緩みが生まれた。
「……やってやろうじゃねえか」
それは、グルの声だった。
それが合図のように、他のオークたちも一人、また一人と頷いていく。恐怖もある。だが、同時にそこには、希望があった。
神に見放された戦場で、俺たちは今――新たな一手を打つ。
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