第4話 巨弩
崩れる音は、風の音にまぎれていた。
最初に聞こえたのは、軋みだった。古びた木材が重みに耐えかねて呻き声をあげる。次いで石材に走る細かなひび割れ。亀裂はゆっくりと、確実に広がっていく。
砦西塔の支柱が、音を立てて歪んだ。
「……今だ」
囁くような声に、鉱夫が頷く。迷いはない。長年使ってきた鉄の楔を、そっと抜き取った。小さな音。だがそれは、巨大な運命を動かす引き金だった。
束ねられていた石材が、押し黙っていた怒りを爆ぜさせるように震え、崩れ、落ちていく。
〈グワシャアアアァン!〉
轟音が朝焼けを裂いた。重力に従った石の奔流が、地上を叩き潰す。砦の外壁、塔の外郭、そしてそれを支えていた回廊の支柱が、一斉に崩れたのだ。
その全てが、敵の最前列へと降り注ぐ。
馬の悲鳴が上がった。兵士の怒号。潰れる鎧の音。人の声とも獣の声ともつかぬ叫びが、戦場を満たしていく。石の濁流は、整然としていた列の秩序を、いとも容易く破壊した。
「上手く巻き込んだな……!」
砦内壁に身を寄せていた片目のグルが、額の汗を拭って息を吐く。その目に映るのは、立ち尽くす人間兵たち。生き残った者も、乱れた呼吸と震える足で、今にも崩れそうだった。
だが、これで終わりではない。
「射手、照準――“荷馬車”を狙え。あれはよく燃えるぞ」
砦内に響いた声は、低く、だが明瞭だった。静かに、鋭く、刃のように響いた。
バルドの命令に応じ、塔の上層に身を潜めていた射手たちが姿を現す。火矢部隊の若者たちが、炎のついた矢を弦に番えた。油布を巻いた矢先からは、ぽたぽたと油が滴り、朝の闇の中に鈍く光った。
バルドは無言で手を挙げた。あとはどうすればいいか、スログの魂が教えてくれる。
【スキル:指揮】を発動しました。
発動効果:周囲の味方に戦術バフを適用します。
・対象:指揮下のオーク兵 67名
・効果:弓技量+20%|士気+20%
「撃て」
その一言とともに、矢が放たれた。
〈ヒュンッ〉
空気を裂いて飛ぶ火の矢。一本、二本……十本。矢は次々に飛び、石の粉塵と煙が立ち上る敵陣の混乱の中心へと降り注いだ。
「おお!今日は矢が良く当たる!」
「新兵まで当ててやがるぜ」
「ハハッ!戦の神は俺たちについてるな!」
狙いは兵士ではない。“列”だった。秩序。統制。それが戦場における人間の力の源。
バルドは知っていた。兵数の差は圧倒的だ。だが、敵が整然と動く限り、オークたちの勝ち目はない。ならば――崩せばよい。敵の“列”を。支配を。“心”の連携を。
火矢が命中した。馬が跳ね、兵士が倒れ、燃え移った布が火を拡げていく。塔から敵の動向を見守っていた射手たちは、震える指で素早く次の矢を番える。
だが、彼らの手は、決して怯えてはいなかった。
──それが「指揮」の力だった。
主将スログの魂を喰らい、祈祷室で儀式を終えたバルドは、ただ知識を得たのではない。命令を命令として響かせる力、心を一つに束ねる力を手に入れていた。
その意志は、砦最奥の巨弩部隊にも届いていた。
「狙いは……白い外套、だな?」
老兵が唸るように言う。弩の装填台に設置された巨大な鋼矢が、わずかに軋みを上げる。台座が軋み、機体全体が身震いするように揺れる。
「引けるか? もう一度」
バルドは無言で頷く。深く息を吸い、脚を踏ん張り、腕に力を込める。膂力でしか引けぬ巨大弩の弦は、オーク・リーダーである彼にしか扱えなかった。
──ギギギ……
少しずつ、だが確かに。鋼の弦が限界点まで引かれていく。背筋が軋み、骨が悲鳴を上げる。
「……よし、狙え」
煙の向こうに、白い外套が見えた。前線とは距離を取って後列に配置された、魔術師たち。今や指揮も混乱し、前列との連携は崩れ、彼らは孤立していた。
風が一瞬止んだ。
その瞬間、バルドは引き金を引いた。
〈ズドォンッ!〉
雷鳴のような音が砦に響いた。鋼の矢が空を切り、火矢の煙を貫いて一直線に飛ぶ。矢は狙い澄ましたように、敵陣の中央――特に豪奢な衣を纏った魔術師へと迫っていく。
〈グシャッ〉
──命中。
時間が止まった。火の向こう、何かが崩れ、潰れる影が見えた。
誰もがそれを見た。
「……やったな」
誰はともなく、声が漏れた。砦の空気が、わずかに緩む。
だがバルドは、すでに次の矢を装填していた。
「次弾装填、早くしろ」
その声に、兵たちの手が動く。女たちは弓を運び、子どもたちは矢を整える。老いも若きも、誰もが黙々と「生きるための仕事」に没頭していた。
──そのときだった。
「……敵、展開してきます!」
塔上の射手が叫ぶ。見れば、煙の向こうで騎士の一団が動いていた。
騎士団長ロダンだ。
混乱をものともせず、重装の騎士たちを率いて反撃の布陣を取っている。背後には魔術師の残党も控え、再び結界を張る構え。
「……立て直しが早い。やるな」
バルドは呻くように言った。誤算だ。
だが、退かない。退けば死ぬのは自分一人だけではない。
「火矢部隊、右列に集中! 巨弩は……再装填急げ!」
その声に応じてオークたちが再び動き出す。命令は届いている。
だがその中で、一本の矢が、砦の塔に刺さった。
「──っ!」
人間側の熟練弓兵だ。すでにこちらの攻撃地点を察知し、反撃を始めている。的確な、冷静な、戦術的対応。
巨弩を担当していた老射手が一人、倒れた。
「狙われてる……ここも安全じゃない!」
塔の上層で悲鳴があがる。バルドは奥歯を噛み締めた。
「火矢部隊、下層に移動! 奴らに位置を悟らせるな!」
それでも、もう一度、巨弩を放つことが出来た。
〈ズドンッ〉
三発目。
だがその矢は、突風にあおられ、軌道をわずかに逸れた。
命中──せず。
遠くで煙が上がるだけ。手応えは、なかった。
「……ッ、惜しい……!」
老兵が拳を握る。だが、骨董品の巨弩をもう一度使うにはメンテナンスが必要だ。
矢の備蓄も尽きかけていた。
敵は反撃を始めている。こちらの陣にも遂に死者が出始めていた。
勝ったか?
否。
優勢か?
まだ、わからない。
それでも、朝日は昇っていた。戦いの第二幕が始まるのだ。
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