第3話 反撃
廃砦の内壁を風が擦り抜け、かすかな砂音を立てる。星は薄く、月は雲の向こう。だが、すべてのオークたちは眠っていなかった。松明も不要だ。夜目に慣れた者だけが持つ視界が、廃墟の中で静かに反撃の準備を行っていた。
バルドは、砦西端の崩れた回廊を歩いていた。足音は地に吸い込まれ、声は影に溶けた。石壁には露が張り付き、足元に割れた瓦礫が転がっている。
「……支柱は?」
「八分削った。言われた通り油も撒いておいたぜ。残りを斧で削れば、重量で崩れるはずだ。間に楔を打ち込んである。合図があれば抜ける」
答えたのは灰色の毛皮を持つ老鉱夫グル。片目を潰しているが、かつて人間の鉱山で三十年働いていたという。あばらのように並ぶ劣化した石柱の根元を指し示し、確認を促してくる。
バルドは黙ってうなずき、手の甲で支柱のひとつを叩いた。湿った音。中身は空洞ではないが、乾いた骨のように脆い。これなら崩れる。
「よし……この塔で敵の先頭を潰す。あとは時間を稼ぐだけだ」
崩落により敵の先頭部隊を削ぎ落とす。それで戦況は変わらずとも、敵の行軍速度は鈍る。騎士団が再編するまでのわずかな隙、その一瞬を突けば魔術師団に届く可能性がある。
振り返ると、回廊の向こうには火矢部隊が膝をついていた。油布を巻いた矢束、弦を張り直した弓、皮袋に詰めた油。すべてが静かに整っている。
「“列”を狙え。兵を狙うな。乱れがすべてを壊す」
その言葉に若い射手たちは無言でうなずいた。中には声変わりもしきっていない少年もいたが、誰も震えていない。むしろ、口元が硬く結ばれていた。【スキル:指揮 】の力だ。バルド自身が驚いていた。言葉が直接、オークの血肉に作用しているかのようだった。
夜がさらに深まる。
気温が落ち、砦の石が冷えていくのがわかる。だが、巨弩の周囲だけは熱を帯びていた。
「こいつは本当に撃てるのか……?」
呟いたのは、太腕を持つ老兵。かつて奴隷闘技場で十年を生き抜いたという。彼ともう二人の大男、それにバルドの四人が“巨弩”の駆動部を囲んでいた。
異形の弩。人間の遺物。木と鋼が歪に組まれ、長さは三メートルを超える。かつては複数人で回すウィンチ機構がついていたが、今はそれが外れ、純粋に「引き切る力」が問われるだけの兵器になっていた。
「引けるか試す」
バルドは矢を装填し、弦に両腕をかけた。そして、膝を曲げ、体を沈めて──膂力を込める。
ギリギリギリ……
空気が震えた。弦が音を立て、徐々に後退する。木部がきしみ、弩の骨格がわずかに歪む。
そして──
「……ッ!」
バルドの背が伸びきり、弦が限界点まで引かれた。矢が、枠の中央にピタリと収まる。
「ッシャア……やるじゃねぇか、小僧!」
老兵が思わず笑った。だがその顔には誇りもあった。かつての指揮官・スログにも負けぬ力が、ここにあると感じたからだ。
「この矢は……誰に向ける?」
老兵が問うた。
バルドは、遥か彼方、夜の帳の向こうにいる敵の後列を思い浮かべた。
「白い外套を纏った魔術師。奴らが詠唱を始める前に、5人は落とす」
その数字に周囲の空気がわずかに揺れた。
「……本当に、そんなに殺せるのか?」
別の兵が言う。バルドは肯定も否定もしなかった。ただ低く告げた。
「最低でも、核を壊す」
指揮官格。おそらくは、他よりも一段と洗練された呪文を扱う上級術者たち。そいつらを撃てば、部隊は壊れる。自滅する。
「夜明けだ」
誰かが言った。
空の一角が、ほんのわずかに青白く染まっていた。遠くに、囀りが聞こえる。風が変わり、敵軍の焚き火の匂いが、淡く漂ってきた。
「──全員、配置につけ」
バルドの声が砦に響いた。
それは怒号ではない。威嚇でもない。だが、全員が一斉に動いた。体が自然と命令を理解していた。
若き射手たちは塔の窓へ、老兵たちは巨弩のそばへ、鉱夫たちは西塔の支柱へ──誰も迷わなかった。
そして太陽が、地平からわずかに顔を覗きはじめた。
──人間側・ロダン視点──
地平が白み始めた頃、騎士団長ロダンは馬上で息を吐いた。
廃砦は静かだった。あまりに、静かすぎた。
「……火はひとつも見えんか」
副官のフレイが頷いた。双眼鏡越しに砦を見据えたまま、声を絞り出す。
「昨夜から松明のひとつも確認できていません。敵は砦に籠もり、身を潜めたままです」
「炙り出すか?」
「……陛下の意向を無視すれば、可能です」
ロダンは無言でフレイを一瞥した。冗談めかした物言いだったが、実際問題、王直轄の魔術師団には一切の損耗が許されていなかった。触れれば、王命に逆らう形となる。
後列の帳が揺れ、白い外套を纏った男が現れる。
魔術師団のリーダー格、エデンだった。銀髪を風に流しながら、無表情でロダンに近づいてくる。
「……我ら魔術師の進軍はまだか?」
その声に、ロダンは無言で首を振った。
「ロダン卿、敵は数百、我らは二千。砦ごと潰せば済むのではないか?」
「確かにな。しかし、その“砦ごと”が簡単ではない。あの石壁の厚さ、そして何より……お前たちを危険に晒すわけにはいかん」
エデンはわずかに眉をひそめた。
「王命を盾にしすぎるな、騎士団長。無傷で魔術は振るえん。我らは力を示すためにここへ来た。守られる魔術師なぞ、王国の恥だ」
「……ならば貴殿らにも死ぬ覚悟はあるのだな?」
短い沈黙。
だがエデンは怒りもせず、ただ手袋を外し、指先を晒した。魔力の痕が赤く浮かび上がり、指の皮膚が焼け爛れているのが見えた。
「こちらも命を削っている。お前の剣となんら変わらん」
ロダンは何も返さなかった。ただ、エデンの指に視線を落とし、ひとつだけ深く息を吐いた。
──その瞬間だった。
「……!」
砦の西端、老朽化した塔が、音もなく傾いだ。
次の刹那──
〈グワシャアアアンッ!〉
轟音。まるで空が裂けたような音と共に、石の塊が宙を舞い、進軍する騎士たちの最前列を押し潰した。
「っ……!?」
「西塔が──崩落! 味方が巻き込まれ──っ!」
部隊長の叫びが飛ぶ。粉塵があがり、戦列が一部崩壊した。第一陣として砦に近づきすぎていた数百騎程が完全に瓦礫に呑まれた。
「全軍、後退──下がれ! 列を整えろ!」
ロダンの号令が響く。だがその直後、今度は空から炎が降った。
「──火矢、火矢だ!」
砦の窓から、赤く揺れる矢の束が放たれた。狙いは兵ではなく、列そのものだった。整列を崩し、隊の流れを分断するように、精密に射られていた。
「なぜ武器の扱いもロクにできないオークの矢が当たるのだッ!」
パニックが走る。火のついた矢が馬具に燃え移り、兵が転倒し、武器を落とす。火が物資に燃え移り、煙が戦列の視界を奪った。
──そして、最も後列にいた魔術師団が、ついに揺れた。
「結界、張り直せ! ……待て、詠唱が乱れている!」
詠唱不能。
煙と熱、そして兵の悲鳴が、集中を削る。静謐を必要とする術師たちは動揺し、陣形を崩し始めていた。獣の軍勢の進撃は、始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます