第2話 指導者

──オーク側・バルド視点──


祈禱室を出ると、夜風が頬を撫でた。


オークたちには、ひとつの古い信仰がある。

──優れた戦士の魂は、その肉に宿る。

若い戦士はその肉を喰らい、力を継ぐ。それが葬礼であり、誓いだ。


月は高く、廃砦の石壁に死者の影を落としていた。

バルドは口の端に付いた血を拭うことはしなかった。それは儀式の証であり、力の象徴だった。

今は嘔吐感も、罪悪感もない。それどころか力が漲っている様な感覚すらある。


砦の中庭には、すでに数百の視線が集まっていた。

バルドの姿を見るなり、その輪が静まり返る。

口元に残る赤は、言葉よりも雄弁だった。


スログの血。スログの肉。

黒き皮膚。親なき異端。


だが今この時、バルドは族の主将を喰らい、その力を継いだ者だった。


ゆっくりと、一歩、前へ出る。


「……聞け」


その声は、冷たく通った。

空気が震える。


「俺が指揮を執る。族長の許しは得た。

異論があるなら──剣を抜け」


刃は抜かれなかった。

代わりに、一人の古参が膝をつく。


「……スログの力を継いだというのなら、従おう。

だが俺たちは百と少し。敵は二千。

勝ち筋を示せ」


バルドは頷き、黄金の視線を巡らせた。

恐怖と猜疑心。

そして、微かな希望を宿す顔。


「狙うは魔術師団。五十の精鋭が後列に控えている。王の直轄だ。

奴らを護るため、騎士たちは縦列を維持する。

それが──弱点だ」


ざわめきが起きた。

魔術師は、人間の戦における象徴。

最強にして、最も脆弱な存在。


「まず、西塔を崩す。正門上の老朽塔だ。

元鉱夫たちは支柱を削れ。整列が終わる頃に崩落させる。

敵の前衛をすり潰す」


「了解だ」


応じたのは、片目の──グル。

かつて人間の奴隷として鉱夫であったが、自力で生還した男だ。

彼が仲間に目配せをすると、空気が変わった。


崩す角度と衝撃の伝播。

坑道を掘り、罠を仕掛けた者たちの経験が甦る。


「次に火矢だ。弦は張り替えたな? 油布は湿らせてあるか?

狙うのは“列”だ。兵を殺すんじゃない。秩序を崩せ。

列が乱れれば、詠唱も、指揮も、すべてが瓦解する」


若き射手たちが息を呑む。

物見台にすら立ったことのない者もいる。

だがその目には、迷いがなかった。


バルドの言葉が、内なる臆病を塗り潰していた。


「最後に“巨弩”だ。人間が残した遺物。

数十人がかりで撃っていた防衛用バリスタ……部品が劣化しているが、俺たちの膂力なら撃てる」


反応があった。


「無茶だ。昔の人間でもクランク無しでは動かせなかった代物だぞ……」


誰かが低く呟いた。

だがバルドは首を振る。


「保証はいらない。撃てるまで引け。

引ける奴が、撃てばいい」


静寂。

それは、一瞬の真空だった。


次いで、老兵の唇が歪んだ。


「よし、ならばこの腕を貸す。

若造だけに英雄面はさせんぞ」


その言葉に、他の者たちも呼応した。


「作戦は三段構えだ。

まず塔を崩して敵の陣形を乱す。

次に火矢で列を散らす。

そして最後に、巨弩で魔術師団を狙撃する」


バルドの声は低いが、確かだった。


「前衛に突破されれば終わりだ。だが“核”を潰せば、奴らは崩れる」


その論理は単純で、明快だった。

だが同時に──それだけの根拠があった。


なぜバルドがここまで知っているのか。

誰も聞かなかった。

だが、その疑念さえも今は力に変わっていた。


士気は、明確な勝利条件に応じて立ち上がる。

スキル《指揮》は、数値でも魔法でもない。

意志を形にする力だ。


「塔の支柱は今から削る。崩れやすい位置に石も積んでおこう」

「火矢は合図待ちだな。風の向きも確認しておくか」

「巨弩の調整は俺が見る。弦が歪んでる。左だ」


それは命令ではなかった。

応答だった。


黒き異端の檄が、部族の心に火を灯していた。


「夜明けに仕掛ける。

各自、持ち場に就け。死ぬな──生きて勝て。

生きて証明しろ。

俺たちが“ただの獣”じゃないってことを」


静かに一本の槍が掲げられた。

それが連鎖するように、砦全体に戦の鼓動が広がっていった。


仲間の肩に手を置く者。

矢を研ぐ者。

塔の裏手に走る者。


皆が、一つの意志のもとに動いていた。


バルドは最後に夜空を仰いだ。


月は雲間から覗き、生温い風が焦げた油布の匂いを運んでいた。


──勝負は、夜明けだ。

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