第6章 火と再生

 ソーホーの夜は静かだった。

 人通りの絶えた裏通りで、診療所の灯りだけがかすかにともっていた。


 ワトソンは、机に向かいながらアダムの記録を綴っていた。

 生理学的異常。心臓なき循環系。人間的思考の兆候。そして、自ら名を持った存在。


 「“アダム”。……医学書に載せるには、あまりにも人間すぎる症例だな」


 そのとき、ドアが小さくノックされた。


 「……誰だ?」


 だが返答はない。ワトソンがゆっくりと扉を開けた瞬間、押し入るように男たちがなだれ込んできた。


 黒いコート、無言の目線、手には電撃棍と麻酔銃。


 「待て! ここは医療施設だ! 君たちは何者だ!?」


 最も背の高い男が一歩前に出た。


 「英国例外的研究対象審査委員会・特務局。対象“アダム”の所在を確認。保護・拘束する」


 「保護……? それが、“処分”の婉曲表現か!」


 ワトソンの怒声が響くが、男たちは無表情のまま部屋を探索し始めた。


 だが――アダムはいなかった。


 ワトソンは拳を握りしめながら、心の中で言った。


 (……逃げろ、アダム。今夜だけは、“命”を選び取るんだ)



 その頃、アダムはソーホーの外れにある古い火葬場跡にいた。

 そこはかつて、貧困層の死体がひそかに焼かれていた場所で、今では誰も近づかない。


 彼はその中央に立ち、夜空を見上げていた。


 「生きるということは、誰かの記憶に残ることだと……先生は言っていた」


 手には、ワトソンから贈られた聖書の一節が挟まれた手紙があった。



「そして人は、己に似せて創った者に、名を与えた」

――創世記 第五章



 「私は創られた。だが、今は“選んだ”。自分で生きると」


 背後に気配が現れる。


 「“Ω個体”、ここで終わらせてもらう」


 特務官だった。背後には複数の処理員がいた。麻酔銃を構え、確実に動きを封じる構えだ。


 「君に罪はない。ただ、“世界が君を必要としていない”だけだ」


 「……ならば、世界の方を拒絶する」


 アダムは静かに答えた。


 そして、手に持っていたオイルランタンを地面に叩きつけた。


 炎が走った。燃料が撒かれていたのだ。

 乾いた木材と油の香りが一気に引火し、火葬場跡は巨大な炎の檻と化した。


 処理員たちが慌てて退避する中、アダムは燃え盛る中央に立った。


 その姿は、まるで生贄か、あるいは――再誕を選ぶ魂のようだった。



 数時間後。

 現場はすでに灰と化していた。


 だが、アダムの遺体は見つからなかった。

 焼け跡の中心に残っていたのは、人間の心臓のような形をした炭塊ひとつ。


 誰がそれを見つけ、誰がそれを埋めたのかは、記録されていない。



 ベイカー街。

 ワトソンは診療記録の最後のページに、こう記した。



“彼は人間だった”と、私は断言する。

鼓動のない体に、確かに“命”があった。

人は、生まれではなく、“選択”によって人間となる。


――J・H・ワトソン 医師記録より

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る