第5章 ソーホーの心臓

 ハイランド北部の小さな修道院跡。

 名もなき青年――いや、今や“命を得た者”と呼ぶべき彼は、かつて死者が祈った部屋で静かに目を閉じていた。


 血の通わぬ肌、鼓動のない胸、しかしその表情は、どこか満たされていた。

 人里離れたこの地で、追跡者もなく、名も尋ねられず、ただ“存在”として許されていたからだ。


 そこへ一通の手紙が届いた。差出人はJ・H・ワトソン。



「君に伝えたいことがある。君の“心臓”について。

ロンドン・ソーホー地区のある診療所で、君と似た生理特性を持つ症例が報告された。

君の生に関わる“鍵”かもしれない。――来てくれないか?」



 数日後、青年はロンドンへと戻った。

 ワトソンの用意した偽名を使い、表向きは「傷痍軍人」として受診することになっていた。


 診療所はソーホー地区の裏路地にある古い建物だった。

 待合室の椅子に腰を下ろすと、ほどなくしてワトソンが白衣姿で現れた。


 「よく来てくれた。顔色は悪くないな。……まあ、色味の問題かもしれんが」


 彼は微笑みながら診察室へと案内した。



 診察台の上、青年は静かに横たわった。

 ワトソンが聴診器を当てる。……やはり、鼓動はない。


 だが、今回はさらに詳しく検査を行った。

 血液循環は存在する。毛細血管は活動し、酸素の取り込みも行われている。

 ただし“中心機関”が存在しない――すなわち、“心臓がない”のだ。


 「通常、人間は心臓を通して血液を循環させているが……君は、違う」


 ワトソンは顎に手を当て、記録帳にペンを走らせながら続ける。


 「君の身体は、電気的な微細振動――おそらくは“神経伝導型の人工パルス”で、全身に流れを生んでいる。心臓の代替ではなく、“心臓という器官が不要な構造”として設計されたのかもしれない」


 「つまり……私は“最初から違う生き物”だった?」


 「違う。“人間とは何か”の定義が、君には当てはまらないだけだ」


 ワトソンはそう断言した。


 「私たちは“心があるから人間”だと言う。でも、それは本当に真実だろうか? 思考すること、選ぶこと、苦しむこと――それが“命”を証明するなら、君はもう充分に人間だ」


 「……」


 青年の喉が小さく鳴った。

 それは、涙を飲み込む音だった。



 その夜。

 二人は診療所の裏庭にあるベンチに並んで座っていた。


 ロンドンの空は曇っていたが、街灯の光がぼんやりと青年の顔を照らしていた。


 「名前を……決めたんです」


 「ほう、それは名誉な報告だな。聞かせてくれ」


 「“アダム”です」


 「アダム……」


 ワトソンは頷いた。


 「創られた最初の人間。そして、自分で世界を歩いた者の名だな」


 「ええ。誰かにつけられた名前ではなく、自分で選びました」


 「それは、“命を持った証”だ。おめでとう、アダム」



 だが、その翌朝。


 ソーホー地区の診療所前に、一台の黒塗りの馬車が停まった。

 乗っていたのは、例外的研究対象審査委員会の直属特務官だった。


 彼の手には、新たな命令書が握られていた。



“対象“アダム”の所在が確認された場合、即時の確保および観察対象からの除外を許可する”



 “除外”――それは、処分を意味する婉曲な言葉だった。

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