「あ、由利川灯火」


 通学路を歩いていると、目の前に見覚えのある黒髪が見えた。

 姫乃の声が聞こえたのか、由利川灯火は振り向いた。


「お、宇津木。おはよ、早いね」

「おはよう。そりゃあね、私も実行委員だから」


 憂鬱な顔をしながら挨拶を返す。今日は朝から、昨日の体育祭の後片付けがあるのだ。

 姫乃は実行委員のためこの片付けに参加しなければならない。夏が近いこの時期に外に出るのはあまり好きではないのに。


「なあ」


 そんな姫乃の内心を読み取ったのか、上から言葉が降ってきた。


「時間ってまだあるよな」

「ええ。あるけど」

「ちょっといいことしない?」


 その言葉に、姫乃は思わず頷く。由利川灯火はにやりと笑って姫乃の手を引いて走り出した。



 橋の下に入り、土手沿いに二人で座り込む。

 由利川灯火は、持っていたビニール袋からラムネ瓶を取り出し、姫乃に渡してくれた。

 

「いいの?」

「いいの。宇津木との打ち上げのために買ったんだから」

「そう。なら、貰うわね。ありがとう」

「それじゃ、かんぱ〜い」

「乾杯」


 カコンと蓋を押し込み、まだ冷たいラムネを喉に流し込む。爽やかな炭酸が夏の訪れを告げているようだった。

 二人の間に静寂が流れる。橋の下だから、橋の上や土手で人が行き来する音が反響していた。


「この間は先生呼んでくれてありがとう。流石に、あれ以上はヤバかったから」

「いや、あれは看過出来ないだろ。ごめん、俺が助けに行けたら良かったのに」

「由利川が来たらもっと大変だったでしょ。一番いい対処していて、寧ろ感心したわ」


 もしあそこに由利川灯火が来ていたら、中野ここあが逆上し、もっと苛烈になっていたことなんて火を見るよりも明らかだ。だから、由利川灯火の行動は最善だったと言える。

 その点を責める気なんて、姫乃には一切無い。だから気にしなくていいのに、なんて姫乃は呟いた。


「でも、俺が早く行っていれば宇津木はあんなに酷い事言われなくて良かったんだぞ? あんな言葉浴びさせてごめん」


 どうやら由利川灯火は教師を呼びに行った後、姫乃達の元に戻ってきていたようだ。

 あの時の音は、十中八九由利川灯火が出したのだろう。今までそんな人はいなかったから、感謝しかないと言うのに。なんとなく気まずい空気が流れる。


「そんなに気にしないでいいのに。ヒメが気にしてないから」

「宇津木は強いな。……ごめん」


 由利川灯火は、何かに耐えるような顔でまた謝った。


バチン!!!

「よし」

「え、どうした?」


 姫乃が急に手を叩いたからか、呆気にとられたような表情になった由利川灯火に笑ってしまう。


「由利川はヒメを助けてくれた、ヒメはそれに感謝している。この話はここでおしまい」


 強制的に話を切り上げ、由利川の方を向いた。


「どんなことでもいいから話てみてよ。ラムネ一本分くらい聞いて上げる。話たくないなら話さなくていいけどね」 


 姫乃は自信満々に笑う。


「……ヒメ様かっけぇ」


 由利川灯火はその言葉を皮切りに昔話をはじめた。


「俺さ、この見た目だろ? 中学の時も結構モテてたんだよ。よく告白もされてたし」


 聞く人が聞けば怒り出しそうな言葉。だが、由利川灯火は寧ろ嫌そうに、淡々と事実を話していく。


「で、中三の時だった。告白してきた中に、俺の好きな人がいたんだ。そりゃOKするだろ。で、順調に恋人になったんだけど、その人本性がやばくてさ」

「うん」

「凄い束縛しいで、交友関係にまで口出されて。しかも、浮気っていうのかな。そんな感じのことされて、辛くなって別れたんだ」


 そこで一度話を切り、由利川灯火はラムネを飲んだ。


「その人は別れたくなかったらしくて、無いこと無いこと皆に話していったんだ。俺に騙された、脅迫されてお金を奪われた、友達の悪口を言っていた。暴力を振るわれたって……。

その人学年のマドンナ的存在で、表の性格は良かったから皆その言葉を信じて。大事な友達も、親友だと思っていた人も離れていった。幸い、虐められる事はなかったけど、ずっと存在を無視されて。俺の言い分は誰も聞いてくれなくて」

「うん」


 それは今でもトラウマなのだろう。どこか他人事のように話す由利川灯火に、過去の自分を重ねる。

 一緒にいると居心地が良い理由が少しだけ分かった。


「それ以来女性と関わりたくなくて、気付いたら女性恐怖症になってた。多分、宇津木も気付いているんだろうけど、俺人間不信もちょっとあるんだ」

「そうね。なんとなく分かってた。あんたは気づいていないと思ったけど」


 姫乃がそう言うと、由利川灯火は弱々しく否定した。


「流石に気付くよ。俺、アイツらのことも信じられずにいるんだぜ」


 アイツらというのは、高校での友人を指しているのだろう。それはどれだけ辛いことか。姫乃には分かってしまう。


「ヒメには話すの?」

「宇津木は大丈夫だって本能的に感じたからかな」

「本能って。つい最近習った言葉じゃん」

「バレたか。……これが、俺が女性を苦手になった理由」


 由利川灯火はラムネを勢いよく飲み干すと立ち上がった。

 話終わったから、姫乃に何か言われる前に行こうとしているのだろう。そんなこと、姫乃が許す訳ないのに。


「待った。まだヒメは飲み終わってない」

「おっと……。逃げちゃ駄目?」

「だめ」


 由利川灯火の袖を引き、座らせる。


「ヒメ、由利川に謝らなきゃならないことがある」


 由利川灯火の方を向き、頭を下げる。


「今まで言った中にウソがある」

「嘘って?」

「ヒメ、由利川が告白されている時に女性恐怖症に気付いたって言ったけど、それウソ。

実際は由利川を観察していたから気付いたの。人間不信もその時に。だから、ヒメは本当は由利川が思っている程良い人じゃないの。ストーカーと言われても反論出来ない。ごめんなさい」

「そっか。宇津木、顔上げてよ」


 パッと顔を上げる。予想に反して由利川灯火は微笑んでいた。

 姫乃の指先が冷たい。これは、ラムネ瓶から来るものではないだろう。


「俺さ、知ってたよ」

「知ってたって」

「なんとなく、宇津木と目が合いやすいなって思っててさ。で、宇津木が観察しているのが分かった」

「じゃあ、なんで?」

「宇津木ってさ、前も言ったけど自分が思ってるよりも素直なんだぜ?」


 ぽん、と由利川灯火が肩を優しく叩いてきた。


「俺と離している時、偶に凄い辛そうな顔をしてて。俺に何かしようとか、恋してるとかそういう感じじゃないなって」


 思っていたことと全く違う言葉がどんどん渡される。離れられても、怒鳴られても仕方がないことなのに。

 目を白黒させながら由利川灯火の顔を見つめた。


「それにさ、あんなに丁寧に植物の世話をする人なら、絶対俺に危害を加えることはないなって」

「なんで」

「前に見かけた。あ、コレは宇津木とおあいこってことで、許してね」

「それは別に良い。そっちじゃない。その程度のことで話して良いって思えるの?」

「いやいや。こういうの大事だぞ〜。誰も見えないところでの行動は、人間の本性が出るのだからな!」

「ふふ、なにその口調。由利川、変なの」


 由利川灯火の口調に緊張が解れた。本当、優しすぎる程に優しい人だ。


「あと、これは打算的な考えな。宇津木って人と関わらないようにしているから、人な話さないだろうなって」

「それはそうだけど。その言葉、ヒメ以外だったらちょー失礼。由利川ってすごく優しいけど残念」

「うん、俺も思った。それはごめんけど納得したっしょ?」

「うん。一番理解出来るし納得出来た」

「これでお互い対等だな」


 なんで由利川灯火があんなに、厄介なほどにモテるのかまで分かってしまった。何気ない会話の何気ない言葉を覚えていてくれて、更にちゃんと守ってくれるのだから。


「そう? あんたの方が話している気がするけど」

「対等対等。だって宇津木、後半素で話してくれてただろ?」

「あ、」


 たしかに、思い返してみれば後半はいつも以上にぶっきらぼうになってしまっていた。


「無意識だったんかい」

「うん。……なんかスッキリした。今まで割と気にしてたから」

「俺も。このことは家族にも話したことがなかったから、スッキリした」


 穏やかな空気が白南風とともに流れる。二人とも憑き物が取れたような顔をしていた。


「俺、宇津木の素の口調のが好きだな。ヒメって、顔にも生き方にも似合ってる」

「折角気を使ってあげてたのに」

「じゃあもういらないな」


 やっぱり由利川灯火は人誑しだ。本当、無自覚のようだからたちが悪い。

 姫乃はむくれながらラムネを飲み切る。勢いよく立ち上がり、橋の下から出た。

 くるりと振り返って灯火の方を見る。


「そうね。ほら、そろそろ行かないと遅刻す。早く行くよ……灯火」


 どうだ。今の姫乃に出来る精一杯の意趣返しだ。灯火は、想像通りの顔をしていて少し嬉しくなった。


「ほら、先行くよ?」

「……まじ、青年漫画だったらヒロインだわ、ヒメ」

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