なぜそれがここに

のま

なぜそれがここに

「なんだ? これは」


 落ちていたそれを見た瞬間、思わず言葉が出た。


「あれみたいですよね。ほら、車が水没した時に窓割るやつ」


 俺と一緒にそれを見下ろしていた部下の羽田はだが答える。


「車脱出用ハンマーだろう? 俺も自分の車に積んでるから知ってるが、こんなんじゃないぞ」

「じゃあ、何ですか? なんか大工さんが持ってるのにも似てません?」


 羽田はしゃがみこみ、それに顔を近づけた。俺は正直、それが何だろうとどうでもよかった。

 鉄製の棒で、片端は平たくヘラ状になってるが、もう片端は先が尖り、九十度位に折れ曲がっている。


「誰かの落としものだろう。気にするな。それより、鏑木かぶらぎ社長の好物は買ってきたのか?」


 俺が問うと、羽田は立ち上がり、制服のスカートのシワを伸ばしながら紙袋を得意気に掲げた。


「もちろんです。大変だったんですよ〜、わざわざ鎌倉まで行って来たんですから」


 恩着せがましく言うが、業務時間内の話だし、ここから鎌倉までは車で一時間もかからない。たぶんこいつは目的の煎餅以外にも甘いものを買ってきたに違いない。


「とにかく行くぞ。約束の時間に間に合わなくなる」


 羽田の呑気さには入社してきて三年経っても、まだ慣れない。


「主任がせっかちなんですよ〜、長生きしませんよ」


 俺だってまだ三十路だ。イライラしながら、社用車の鍵を羽田に放った。羽田は慣れた様子で運転席に座ったが、すぐに窓から顔を出した。


「主任、それ、どけてもらえません?」

「それ?」

「そのスパナみたいなやつですよ」


 確かにその棒状の何かは前輪のすぐ前に落ちていた。


「スパナは違うんじゃないか? あれはボルトやナットを締めるための……」

「細かいなぁ。だから主任、結婚できないんじゃないですか?」

「関係ないだろ」


 今のはセクハラではないのか。


「それ拾って、総務に届けといた方がいいんじゃないですか?」


 羽田の提案に俺は顔をしかめた。面倒くさい。

 こんなの端に除けとけば、そのうち持ち主が取りに来るだろう。


 俺はそれを蹴って、前輪から離した。それはコンクリの地面を滑り、駐車場の壁にぶつかって、止まった。


「あ、お客様のだったらどうする気なんですか? なんて扱いを」

「うるせーな。うちは練り物会社なんだ。お客がこんなもん持ってきてるわけないだろうが」




 二時間後、商談から戻ると、それは駐車場から消え失せていた。

 そんなことをすっかり忘れた羽田は、やはり鎌倉で自分用に買ってきたお菓子を食べている。その隣の席で俺は上に出す稟議書を書きながら、どうにも気になり、それについて調べた。


 あの金属の棒は、いわゆるバールというものらしい。だがバールというのは製品名で、実際の名称は鉄梃かなてこといい、てことして利用する大工道具である。釘抜きとして使う事もあるそうだ。色んな形や長さ、色があって驚いた。


「なぁ、あれってバールみたいなものだったよな?」

「はぁ? 何の話ですか?」


 羽田の記憶力に期待してはいけないことをあらためて思い知る。


「練り物会社のうちの駐車場に何で落ちてたんだろうな……誰の持ち物だったんだ? あれはよく犯罪にも使われるよなぁ」


 言いながら思い出したのだ。よくニュースで強盗などが窓を叩き割るのに「バールのようなもの」を使ったと聞く気がする。

 とすると、あんなものがうちの会社の駐車場に落ちていることじたい、ますます不自然な気がして、気になってきた。


「なぁ、もしかして、何か盗まれてないかな?」

「……なんか私より気にしてないですか? だから、お客様の落としものとして、届けとけばいいって言ったじゃないですか」


 羽田が丸いスポンジケーキを頬張りながら、呆れたように返す。


「なくなったのって、俺らが出ている間に取りに来た……ってことだよな? 強盗が」

「強盗入ったのが前提になってますけど、そんな大変なことが起こってたら、朝から騒ぎになってますよ」


 確かに羽田の言うとおりだった。

 何か喉に魚の小骨が引っかかっているような、嫌な感じが残ったが、現実にはブツは無くなっているし、そんなことにいつまでも拘っていられない。俺は稟議書を仕上げた。




「わかりましたよぉ、主任。スパナみたいなやつの持ち主」


 それを忘れかけていた終業時刻間際、羽田がどこかから席に戻ってきて言った。


「スパナじゃなくて、バールな。……え? 持ち主がいたのか?」

「そうなんですよ。私たちが行った後、総務部のちなちゃん……じゃなくて金原さんが、社長に頼まれて拾ったんですって」

「ん? 社長の物だったのか? あれ」


 うちの会社の社長はいかにもな中小企業の社長で、ゴルフのパターを握ることはあっても、バールのようなものを持つイメージはない。


「いいえー。社長のお客様のなんですって。あ、お客様というのは、昔からの上得意の上田蒲鉾店の三代目で、あれの持ち主は三代目の旦那さんの一人親方(大工)みたいです」


 なんだか情報量が多すぎて、理解できないんだが。

 つまり、上得意の三代目は女性で、その旦那はなぜか大工なのか。それでその大工がなぜうちの駐車場にバールのようなものを落としていったんだ?


「よかったですね。帰る間際に解決して。これでよく眠れますよ」

「ま、まあ、たしかに」


 解決はしている。強盗じゃなくて、よかったということだ。


「じゃ、お先に失礼しま〜す」

「あ、羽田」

「なんですか?」

「……なんでもない。おつかれさま」


 まあ、現実は小説のようにすっきり理解できるものじゃない。そういうものだ。

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