第3話:雨宿りの距離、縮まる心

その日の放課後、陽菜は図書委員の仕事を手伝い、月見は珍しく図書室で残って読書をしていた。陽菜が「月見さん、もう帰るの?」と声をかけると、月見は「ええ、そろそろ」と静かに答えた。校舎を出ると、空は一変していた。朝の澄んだ青空はどこへやら、厚い鉛色の雲が広がり、雷鳴が遠くで響いている。


「わ、すごい雲行き! 私、傘持ってきてないよ?!」


陽菜が空を見上げながら声を上げた、その瞬間だった。まるで空が割れたかのように、激しい雨粒が降り注ぎ始めた。あっという間に地面は水たまりを作り、校舎の屋根を叩く雨音が大きく響き渡る。


「うわぁ! これはしばらく止みそうにないね!」


陽菜は慌てて校舎の軒下へ駆け込んだ。振り返ると、月見も陽菜のすぐ後ろに立っていた。月見も傘を持っていなかったようだ。


二人は、体育館の入り口に続く、少し奥まった軒下で雨宿りをすることになる。そこは、普段はあまり人が通らない場所で、二人の間には、雨音だけが響く静かな空間が広がっていた。陽菜は、少しだけ体が冷えるのを感じて、腕をさすった。


「まさか、こんなに降るとは思わなかったなぁ。天気予報、あんまり見てなかったから、完全に油断してたよ」


陽菜は普段通り明るく話しかけたが、月見は空を見上げたまま、何も言わない。ただ、静かに雨音を聞いている。その沈黙に、陽菜の心に微かな戸惑いが生まれる。陽菜は月見の横顔をちらりと盗み見た。長い睫毛に、雨のしずくがつきそうなほど、月見の視線は一点を見つめている。無理に話しかけるべきか、それともこの静けさに身を任せるべきか。陽菜は迷った。しかし、この静けさが、普段の喧騒とは違う心地よさを陽菜に感じさせた。隣に月見がいるという安心感が、陽菜の心を穏やかにしていく。


しばらくして、月見がふと小さな声で呟いた。その声は、雨音にかき消されそうになるほど微かだったが、陽菜の耳には確かに届いた。


「雨の音は……心を落ち着かせる」


その言葉に、陽菜はハッとした。陽菜の心に、月見の言葉の奥に隠された、繊細な感情を感じ取ろうとする意識が芽生え、彼女への特別な感情が「明確な好意」へと変化する助走が始まる。それは、まるで、透明なベールが剥がれ落ちたかのように、月見の内面が一瞬だけ垣間見えたような感覚だった。陽菜は、月見の言葉が持つ深い意味を静かに反芻し、彼女の内面に触れたような気がした。月見の心には、陽菜が自分の言葉に耳を傾け、理解しようとしてくれていることに、心地よさと、微かな心の開放感を覚えていた。月見は、陽菜の存在が、自分の内に秘めた感情を解き放つ鍵になるのではないかと、漠然とした予感を抱き始める。


「心を、落ち着かせる……か。月見さん、そういう風に感じるんだね」


陽菜は、月見の言葉を繰り返すように呟いた。月見は、陽菜の視線を感じて、ゆっくりと陽菜の方に顔を向ける。その瞳は、いつもよりわずかに柔らかく、感情が滲み出ているように見えた。


「はい。静かで、何も考えなくていいから……」


月見の声は、やはり静かだったが、その言葉には、月見自身の内面的な葛藤が滲んでいるように、陽菜には感じられた。陽菜は、月見が普段、どれほど多くのことを考えているのか、そして、どれほど心を落ち着かせたいと願っているのか、漠然とだが理解できたような気がした。その理解は、陽菜の心に、月見への深い慈しみを芽生えさせた。


「そっか……。私、雨の日は、ちょっと憂鬱になっちゃうこともあったけど、月見さんの言葉を聞いたら、なんだか雨の日も好きになれそうな気がしてきたよ」


陽菜は、月見に向かって、少し照れたように微笑んだ。月見は、陽菜のその言葉に、小さな驚きの表情を見せた。自分のたった一言が、陽菜の感情にそこまで影響を与えるとは、思ってもみなかったのだろう。月見の心の中には、陽菜の「純粋な肯定」が、温かい雫のように染み渡っていくのを感じていた。それは、これまで月見が経験したことのない「他者との共鳴」だった。


二人の間に流れる時間は、雨音とともに、ゆっくりと、しかし確実に進んでいく。陽菜は、月見の隣にいることが、驚くほど自然で、心地よいと感じていた。まるで、以前からずっと、こうして月見の隣にいるのが当たり前だったかのように。陽菜の視線は、再び月見の横顔へと向けられる。雨に濡れた地面に、校舎の明かりが反射して、二人の影がゆらゆらと揺れる。


「月見さん、今日、図書室で何の本読んでたの?」


陽菜は、話題を変えるように尋ねてみた。昨日、同じ絵本が好きだと分かってから、月見が普段どんな本を読んでいるのか、陽菜は気になっていたのだ。月見は、少し考えてから、静かに答えた。


「……詩集です。古い外国の詩集」


「詩集かぁ! なんだか、月見さんにぴったりだね! どんな詩が好きなの?」


陽菜は、月見の意外な一面に、また一つ新しい発見をしたような気持ちになった。月見は、陽菜の言葉に、ごくわずかに口元を緩ませた。それは、陽菜にしか気づけないほどの、繊細な微笑みだった。


「……言葉の一つ一つが、丁寧に紡がれているのが好きです。短い言葉の中に、深い意味が込められているところが」


月見の言葉に、陽菜は深く頷いた。陽菜もまた、言葉の持つ力を信じている。言葉を通じて、月見の内面の世界を少しずつ理解していくことが、陽菜にとって大きな喜びへと変わっていくのを感じていた。


雨は降り止まないが、二人の心の距離は、確実に縮まり始めていた。軒下の空間は、まるで二人だけの小さな世界になったかのようだった。陽菜は、この雨宿りが、月見との関係をより深めるための、大切な時間になっていることを、肌で感じていた。そして、月見の存在が、陽菜の心の中で、単なるクラスメイトから、特別な人へと、明確に変化する助走を始めていることを、陽菜自身が自覚し始めていた。雨音は、二人の心をそっと包み込むように、優しく降り続いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る