第4話:朝の待合せ、微かな約束

雨上がりの朝、空は昨日の鉛色とは打って変わり、洗われたような澄んだ青が広がっていた。街路樹の葉からは、まだしずくがポツリ、ポツリと落ち、アスファルトには濡れた跡が残っている。清々しい空気が肺を満たし、陽菜は、いつもより少しだけ早く家を出た。昨日の雨宿りの記憶が、陽菜の胸に温かい余韻を残していたからだ。月見と共有した静かな時間、そして、月見の口からこぼれた繊細な言葉。それらが陽菜の心をじんわりと満たし、「もっと月見を知りたい」という思いを募らせていた。


通学路を歩いていると、ふと、陽菜の視線が学校の門の前に吸い寄せられた。そこに立っていたのは、他でもない月見だった。いつもは人影もまばらな時間なのに、月見は珍しく、誰かを待っているように門の脇に立っている。長い黒髪が朝の風にそよぎ、制服のスカートの裾がわずかに揺れている。陽菜の胸が、ドキンと大きく跳ねた。


(え、月見さん、誰か待ってるのかな? まさか、私……?)


陽菜の心に、微かな期待が生まれた。それは、昨日縮まった心の距離が、さらに一歩進むかもしれないという淡い予感だった。陽菜は、少しだけ足早になった。月見が陽菜の姿に気づき、わずかに目を丸くした。その表情は、やはり驚きと、そして微かな戸惑いを含んでいた。


「月見さん! おはよう!」


陽菜が元気よく声をかけると、月見はゆっくりと陽菜の方に顔を向けた。月見の瞳に、陽菜の姿が映る。朝の光の中で、月見の白い肌がより一層透き通って見えた。その頬に、ほんのわずかに桜色の赤みが差しているように見えたのは、陽菜の気のせいだろうか。


「……おはようございます、陽菜さん」


月見の声は、相変わらず静かだったが、その声の響きには、昨日までにはなかった微かな柔らかさが感じられた。月見の胸には、陽菜を待っていたことを知られることへの照れくささと、陽菜が来てくれたことへの純粋な安堵が入り混じっていた。それは、まるで、夜明けの空に浮かぶ一筋の雲のように、形をなし始めたばかりの感情だった。月見の心の中で、陽菜の存在が、自分の「日常の習慣」に、甘い変化をもたらしつつあることを、静かに受け入れ始めていた。


「月見さん、どうしたの? こんな時間にここにいるなんて、珍しいね!」


陽菜は、素直な疑問を口にした。月見は、一瞬だけ視線を泳がせた後、ゆっくりと答えた。


「……少し、早く着いてしまって。それで……その、陽菜さんが、来るかな、と……」


月見の言葉は、そこで途切れた。月見は、自分が陽菜を待っていたことを、はっきりと口にすることを躊躇っているようだった。その小さな声には、少しだけはにかみが混じっていた。陽菜は、その微かな沈黙の理由を、直感的に悟った。月見の不器用な優しさと、ささやかな気遣いが、陽菜の心に温かい波を立てた。陽菜の心には、月見の繊細な気持ちを大切にしたいという思いが募った。陽菜の頬も、月見の言葉に少しだけ熱くなった。


「そっか! 私も、なんだか早く目が覚めちゃってさ、ちょうど良かった! じゃあ、一緒に学校行こう!」


陽菜は、月見の言葉の続きを無理に促すことなく、満面の笑みでそう言った。月見は、陽菜の配慮と、その屈託のない笑顔に、驚きと、そして深い感謝を感じた。月見の心の奥底に、陽菜という存在が、「予測可能な安心感」として、少しずつ根付き始めていた。それは、これまで感情を抑えがちだった月見にとって、新しい心の居場所を見つけたような感覚だった。


二人は並んで、校門をくぐった。登校する生徒たちのざわめきが、昨日までとは違って、どこか心地よく感じられた。陽菜は、月見の隣を歩くのが、こんなにも自然で、心穏やかなことだとは、昨日までは想像もしていなかった。隣から漂う月見の微かな石鹸の香りが、陽菜の心をさらに落ち着かせた。


「そういえばさ、月見さん、詩集読んでるって言ってたよね! どんな詩が好きなの? 私、あんまり詩集とか読んだことないんだけど、月見さんが好きだって聞いたら、ちょっと興味出てきちゃった!」


陽菜は、昨日図書室で話した詩集の話題を振ってみた。月見が、少しだけ顔を上げて、陽菜の方を見た。その瞳には、微かな喜びの光が宿っていた。自分の興味を、陽菜が覚えていてくれたこと、そして、それを尋ねてくれたことが、月見の心を静かに揺さぶった。それは、まるで、陽菜の言葉が、月見の心の扉を、さらに大きく開いてくれるような感覚だった。


「……そうですね。私は、言葉の持つ響きや、余白に惹かれます。例えば、雨の詩で、『水面に映る、心の影』という一節があるのですが……」


月見は、昨日と同じように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。陽菜は、月見の言葉の一つ一つを、真剣に、そして丁寧に聞いた。月見の語る詩の世界は、陽菜がこれまで知らなかった、深遠で美しいものだった。月見が詩の一節を口にすると、陽菜の心の中に、その詩の世界が鮮やかに広がる。言葉が、まるで絵のように、あるいは音楽のように、陽菜の感性を刺激した。陽菜は、詩の情景を想像しながら、月見の言葉に耳を傾ける。


陽菜は、月見の隣を歩きながら、ふと考える。月見は、自分とは全く違う世界に住んでいるように見えて、実は、その心の奥底には、共通する「何か」が隠されている。その「何か」を、陽菜は少しずつ、月見との会話を通して見つけ出しているような気がした。それは、まるで宝探しをしているかのような、わくわくする感覚だった。


月見の心には、陽菜の存在が、まるで新しい扉を開く鍵のように思えていた。陽菜と話すことで、これまで誰にも話せなかった自分の好きなもの、感じていることを、無理なく、自然に言葉にできる。月見の胸に、微かな「希望」が芽生え始めていた。陽菜の言葉が、月見の心に温かい風を吹き込み、彼女の閉ざされていた感情を揺り動かしていく。


教室に着く頃には、二人の会話は途切れることなく続いていた。チャイムが鳴り、生徒たちが一斉に教室へ向かう中、二人はゆっくりと自席に座った。陽菜は、月見との距離が、また一歩、確実に縮まったことを実感していた。そして、月見もまた、陽菜という存在が、自分の「静かな世界」に、温かく、そして心地よい変化をもたらしていることを、漠然と感じ始めていた。朝の通学路は、二人の間にとって、特別な場所へと変わりつつあった。月見の心には、明日も、陽菜が門の前に来てくれるだろうか、という淡い期待が、小さな光となって灯っていた。

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