第2話:図書室の秘密、繋がる視線
放課後、陽菜はなんとなく友人たちと別れ、ふらりと図書室に立ち寄った。特定の目的があったわけではない。ただ、少しだけ、一人になりたかったのかもしれない。昼間のクラスでのざわつきが、まだ耳の奥に残っているような気がした。新しい環境と、隣に座る月見という謎めいた存在。それらが、陽菜の心の中に微かな波紋を広げていた。陽菜は、静かな場所で、その波紋の正体を確かめたかった。
本棚の間を縫うように歩く。視線を彷徨わせていると、陽菜が普段はあまり近づかない、奥まった一角から微かな気配を感じた。そこは、日差しがあまり届かず、古びた本の匂いが濃く漂う場所だった。
「あれ……?」
陽菜はそっと、その気配のする方へ足を進める。書架の隙間から覗き込むと、そこに座っていたのは、他でもない月見だった。彼女は静かに、しかし熱心に一冊の絵本を読んでいる。陽菜は、その見慣れた横顔に、少しだけ心臓が跳ねるのを感じた。
(月見さん、絵本読むんだ……意外だな)
陽菜の脳裏に浮かんだのは、月見の静かで神秘的な雰囲気だった。まるで、手の届かない遠い星のような、そんな印象。そんな彼女が、絵本という幼く、温かい世界に没頭している姿は、陽菜の抱いていた月見のイメージとはかけ離れていた。そのギャップが、陽菜の好奇心をさらに刺激する。そして、月見が読んでいた絵本に陽菜の目が留まる。それは、陽菜が幼い頃から大切にしている、あの「月の精と星の物語」シリーズの絵本だったのだ。表紙の絵柄、色褪せた背表紙、全てが見覚えのあるものだった。陽菜の胸に小さな喜びが芽生える。それは、ただ共通の趣味を見つけたというだけではない、もっと深い共感のようなものだった。陽菜は、自分の内側にある「特別な何か」が、月見にも存在しているような、そんな確かな予感を抱いた。陽菜の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
陽菜は、抑えきれない興奮を胸に、そっと月見に近づき、声をかけた。
「月見さん、それ……! もしかして、『月の精と星の物語』シリーズ?」
月見は、陽菜の突然の声にハッと顔を上げた。その瞳には、一瞬の驚きと、そして微かな戸惑いが浮かんでいた。まるで、自分の秘密の場所を覗かれたかのような、そんなはにかみにも似た表情だった。月見は、手に持っていた絵本をゆっくりと閉じる。その仕草は、どこかぎこちなく、しかし丁寧で、大切に扱っていることが伝わってきた。
「……はい。そうです」
月見の声は、いつも通り静かで、感情の起伏はほとんどない。しかし陽菜には、月見の瞳の奥に、親愛の光が宿っているのが見えた。月見の心の中では、陽菜の言葉が「予測していなかった親近感」として処理され、これまで閉ざされていた感情の扉が、微かに開いた瞬間だった。月見の胸には、陽菜が自分と同じ本に興味を示したことに対する、微かな驚きと安堵が広がっていた。それは、まるで、自分の心の奥底に大切にしまっていた宝物を、誰かに見つけられたような、温かい照れくささにも似ていた。
「わぁ! やっぱり! 私もこのシリーズ、大好きなんです! 特に、月の精が小さな星と出会う話、すごく好きで!」
陽菜は、堰を切ったように話し始めた。月見は、陽菜のキラキラとした瞳に、少し気圧されたように目を伏せる。しかし、陽菜の言葉の一つ一つを、真剣に、そして丁寧に聞いているのが伝わってきた。月見の頬が、ほんのわずかに紅潮しているように見えた。それは、陽菜の熱量が、月見の心の壁を溶かし始めている証拠だった。
「……そうですか。私も、あの物語は好きです。月の精が、初めて誰かと心を通わせる場面が……孤独だった世界に、光が差し込むような……」
月見は、珍しく言葉を続けた。その声は、いつもよりほんの少しだけ、感情が乗っているように陽菜には聞こえた。陽菜の心には、月見の内面に秘められた、自分と通じる「何か」を強く感じ取り、月見への関心が「単なる興味」から「もっと知りたい」という、はっきりとした感情へと膨らみ始める助走が描かれる。それは、まるで、暗闇の中に一筋の光が差し込んだかのような、鮮やかな感覚だった。陽菜は、月見の言葉の奥に、彼女自身の「孤独」と、それを打ち破る「光」への憧れを感じ取っていた。
「うんうん! そうですよね! あそこ、本当に感動しますよね! 私、あの星が、月の精を優しく包み込むところが、すごく好きで……なんか、自分もああいう存在になれたらなって、いつも思ってたんです」
陽菜は、月見の言葉に深く共感し、大きく頷いた。二人の間に、共通の絵本という媒介を通して、言葉以上の確かな繋がりが生まれた瞬間だった。図書室の静寂の中で、二人の声だけが、温かく響き渡っていた。まるで、二人の間でだけ通じる、特別なメロディーが奏でられているかのようだった。
その後も、二人は絵本の話で盛り上がった。好きな登場人物や、印象に残った場面について、お互いの感想を伝え合う。月見は、陽菜の熱心な話に、時折微かに微笑みを浮かべた。その微笑みを見るたびに、陽菜の胸は温かい光に包まれるような気がした。月見の微笑みは、陽菜にとって、何よりも価値のあるものに感じられた。それは、月見の閉ざされた心の扉が、少しずつ開かれている証のように思えたからだ。
ふと、月見が顔を上げた。その視線は、陽菜の表情から、陽菜の手に握られた、少し使い込まれたような自分の絵本へと移る。
「……陽菜さんも、その絵本、大切にしているのですね。なんだか、私と同じくらい、大切にされているのが伝わってきます」
月見の言葉は、陽菜にとって予想外だった。自分の絵本が、月見にそこまで深く見られているとは思いもしなかったからだ。陽菜は、照れくさそうに絵本を胸に抱きしめた。
「はい! これは、私にとって宝物なんです。小さい頃から、何度も読み返してて、もうボロボロになっちゃうくらいで……でも、だからこそ、もっと大切にしたくて」
月見は、陽菜の言葉に、ゆっくりと頷いた。その瞳の奥には、陽菜の「大切にする気持ち」に対する、深い理解と共感が宿っているのが陽菜には感じられた。月見の心には、陽菜の純粋な感情が、まるで温かいインクのように染み込んでいくのを感じていた。それは、これまで感情を「観察」するだけだった月見にとって、「感情を共有する」という初めての体験だった。
図書室の窓から差し込む夕日が、二人の間に柔らかな光を投げかける。埃の舞う古い空気の中、二人の間には小さな秘密の共有が生まれ、それが二人の心を、以前よりもずっと近くに引き寄せた。陽菜は、この出会いが、これからの学園生活に、どんな彩りを与えてくれるのか、期待に胸を膨らませていた。月見は、陽菜という「小さな星」が、自分の「孤独な世界」に、確かな光を灯してくれたことを、静かに感じ始めていた。二人の関係は、まだ始まったばかりだが、その輝きは、確かにそこに存在していた。
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