わたしのメアリー・スー

神崎郁

さよなら

 秋の匂いはもうとっくに死に絶えてしまって、いつの間にやら冬。


 外に出たくない。


 だが、それでも学校には行かないとまずい。このままずるずると休んで居ると本当に留年しかねないので重い足を動かして家から出る。


 これはその道中のことだ。


「夕ちゃんじゃん、久しぶり」

「誰?」


 朝っぱらから謎の女に話しかけられている。


「覚えてないの?」

「見たことも声を聞いたこともないかな......もしかして前世的なアレ?」


 そういう風なナンパがあると又聞きした事があったので、反射的にそう尋ねてみる。

 

「今世で会ったことあるよ?」

「わかったわかった。3歳くらいの時に会ったことあるのかもね。で、何しに来たの?」


 このままでは埒が明かないのでそういうことにしておこう。人は基本的に3歳くらいまでの記憶は無いものだし。それよりも問題は目的だ。


「ええと、最後のお別れを言いに来たの」


 彼女は少しだけ言い淀むと、そうはっきりそう言った。

 

「わたしには最初で最後なんだけど、どういうこと?」

「まあ、直ぐにわかるから、着いてきてよ」


 わたしが遅刻も気にせず彼女に素直について行ったのは、最後のお別れ、という単語のロマンチックな響きにどこか引き寄せられたからか、懐かしさを覚えたからか。


 

 彼女に連れられて歩く冬の夜は賑やかだった。


 クリスマスが近づいて、寧ろこれから更に活気づいていくであろう街並みは、ぼやけた色鮮やかななイルミネーションの光で埋め尽くされている。


 何となく落ち着かなくて、募金箱の小さな穴に千円札を幾重にも折って入れるというとてつもない善行までした。


「そういう事するんだね。人に興味無さそうなのに」

「だからこそ、だよ。」


 わたしはぽつりとそう言って再び歩みを進める。


「どういうこと?」

「せめて、簡単に出来る自己満足はやっておきたいってことかな。じゃないと、わたしはわたしをを嫌いになりそうだから」

「そっか、変わったんだね」


 昔のわたしをあなたは知らないだろうと言い返そうと彼女を見ると、笑う彼女の顔はどこか寂しそうで、口ごたえすることはかなわなかった。


「もうすぐ着くの?」

「うん。身近なところだと思うよ」


 着いたのはわたしが昔に住んでいた家だった。


 なるほど、たしかに身近といえば身近だ。


 別に両親が離婚したとかではなく、この家は賃貸で今住んでいる家がマイホームであると言うだけの話だ。


 いや、そこじゃない。


「どうして知ってるの?」


 全く違和感を覚えなかった自分自身に寒気がした。何もかもがおかしいと思いながらも完全に彼女の作る空気にわたしは呑まれていたのだ。


「だって、君は私だもん」


 彼女は玄関へと歩みを進め、鍵も無しに扉を開けて見せた。


「どういうこと?」

「そのままの意味。入ってよ」


 家の中は埃ひとつなく、あの頃のままの姿だった。


 そう、寸分違わずあの頃のままだ。


 玄関には辛うじて揃えられた靴が並び、家具の位置も変わらない。


「どういうこと?」

「これは記憶だよ」


 数年前、わたしの中に確かにいたあの子の事を思い浮かべる。


 そして、目の前の少女を見て、この不可解な現象の事は頭からするりと離れていった。


 そして私がこの子に何を問うべきなのかがはっきりする。


「あの子はここに居るの?」

「うん。もちろん、ここにいるよ」

「......そっか」


 これは誰も知らない秘密。憂鬱な夜に現れるわたしだけの完璧な友人。


 彼女だけがわたしを理解してくれて、彼女だけがわたしを笑わないでいてくれた。不安定な世界で彼女だけがわたしには真実だった。


 


「だから━━さよなら」


 突然だった。

 彼女は懐から勢いよくナイフを取りだし、わたしに向ける。


「え?」

「嘘つき。恩知らず」


 彼女の声色は先程までと比べていくらか冷たい。

 

「冗談、だよね?」

「ならどれだけ良かっただろうね。大丈夫、殺すつもりは無いから」


 そんなことを現在進行形でナイフをこちらに向けている相手に言われても説得力が1ミリもない。


「......」

「終わりにしようよ。夕ちゃんは私が居なくたって生きてけるんでしょ? さっきまで忘れてたんだもん」


 本当は片時も忘れてなんて居なかった。わたしが彼女に気づかなかったのはあの頃と比べるとあまりに見違えていたからだ。


 あの日を思い出す。たしか、あの日は雪がとめどなく降っていた。


 

 当時仲の良かった友達がいなくなった。


 死んだ訳ではないことだけは明言しておくけど、どう居なくなったのかはあまり話したくないので割愛する。


 ただ、部屋で泣いて過ごすしかなかったわたしの前に現れたのが彼女だった。


「誰?」

「私は、ただの君の友達だよ」


 そうとだけ言って、私の話をうんうんと頷きながら聞いてくれた。


 あの時のわたしにとって1人の夜が彼女そのものだったと言ってよかったかもしれない。


 1年ほど、そんな日々が続いて、彼女は突然居なくなった。



「居なくなったのはそっちのほうじゃん!」

「それは......夕ちゃんが私を必要としなくなったから」

「そうだね。確かに必要じゃなくなったけど、それでも友達でいようって言ったのもそっちでしょ?」

「...... だってあのとき、ほんとはすごく怖かったから」


 そこまで言うと彼女は黙り込んでしまった。


 あの日完璧に見えた彼女は、今のわたしには驚くほど子供に写った。


「怖かったの?」

「当たり前のように夕ちゃんは新しく友達を作ってわたしは全く変わらないままだった。そうなると、私は夕ちゃんにとっての完璧じゃなくなるから」

「でも......」


━━それって逆ギレだよ。


 そう言いかけて、辞めた。


 だって、彼女を手繰り寄せようとしなかったわたしにそんなことを言う資格はない。


「また、言いたいことをはっきり言わないの?」

「そうだけど、今は昔と違うよ。言うべきじゃないから言わなかっただけ」

「そっか。いきなり感情的になってごめん」

「どうして、わたしをここに連れてきたの?」

「忘れて欲しかったんだよ。私を」

「忘れないよ。ばか」


 そうわたしが言うと、彼女は重い何かに耐えるように顔をくしゃりと歪める。


「でも、夕ちゃんにとっての私は、弱かった頃の自分自身でしかないんでしょ? 夕ちゃんが進んでいく中で私の存在はどんどん重みになっていく。それが嫌で......」


「なんだ、そんなことか」

「え?」


 こっちはそんなのとっくに乗り越えている。


「これまでも全部ひっくるめてわたしなんだよ。弱かった頃のわたしの延長に今のわたしがいて、たまにあなたをそっと思い返す。そういうものだよ」

「必要じゃないのに?」

「必要の上にはきっと大切があるんだと思う。ありがとう。わたしをあの時守ってくれて」


 その言葉が届いたのか、彼女は目を閉じて、静かに微笑んだ。


「ちょっとだけ走ろうか」


 ◆


  彼女も、この家も消えた。



 痛む両手も耳もなかった事にするようにわたしは走った。


 本当なら、今頃わたしは半端に暖房が効いた教室の中でぬくぬくと居眠りをしていたのかもしれないけど、そんなのは後の祭りで、平日に学校にも行かず、走っているという現実だけがここにある。


 共に走る彼女を一瞥し、問いを投げる。


「いつまで走ればいいの?」

「世界が終わるまでかな」


 わたしたちは長い長い夢を見ている、逃げ出す事の意味も知らぬまま、世界は何処までも広いのだと錯覚したまま。


 大人になったふりも、これまでの道のりもも横に置いて、今だけはあの頃に帰ったようだ。


「私の事、ずっと覚えてる?」

「うん。もちろん」


 わたし達は疲れ果てるまで走った。平日の真昼間の街を抜け出して、懐かしい公園で下手くそに踊った。


 気づけば彼女はいなくなり、空から静かに雪が舞い始めていた。


 ふと空を見上げると、灰色の空から舞い降りる白いものが、街灯の光の中でふわふわと揺れていた。


「……ありがとう」


 わたしは誰にも聞こえないように呟く。


 そして、もう一度ちゃんと足を踏み出す。


 ごそりと重い足音が鳴った。

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