第3話

 いおりはベッドの脇に置かれた椅子にゆっくり腰を下ろした。記録係が、人とこんな風に対話を交わすことは本来ない。だが今、この少女と向き合うことに、なぜか抵抗はなかった。


「……彩香」


「えっ、どうして私の名前知ってるの?」

「記録には、すべて載っているわ。名前も、年齢も、病状も」


 いおりは淡々とした声で答えた。

 それは彼女にとって当たり前の事実。だが彩香は少し驚いた顔をしたあとふっと笑った。


「そうなんだ。でも知られても平気。どうせ長くないし」

 いおりは、その言葉にわずかに眉を動かした。

 “長くない”――まるで他人事のように、彼女は自分の命の終わりを口にした。


「記録係って、何をするの?」

唐突に、彩香が問いかける。


「死ぬ間際の人間の、最後の記憶を記録する。それが私たちの仕事。君の最期の記憶も、私はいずれ受け取ることになる」


 淡々としたその言葉に、彩香は目を瞬かせた。

「……そうなんだ。でも、なんだか優しいね、その仕事」


 その答えは、いおりの想定を超えていた。


「優しい、って……どうしてそう思うの」


 いおりの問いに、彩香は少し考えるように目を細めた。


「だって、“最後の記憶”を残してくれるんでしょう? それって、誰かのことをちゃんと見届けてくれるってことでしょ。 私、病院にいると、どんどん“いない人”みたいになってくるから……なんか、ちょっと羨ましいって思った」


 その言葉は、いおりの胸のどこかを静かに打った。


 彼女は何人もの人間の“最期”を見てきた。

 涙を流す者、笑って逝く者、怒りを抱いたまま逝く者。

 けれど、彼らが最後に見た景色を“誰かが覚えている”――それが唯一の救いだと、いおりは思っていた。


「……彩香。君の記憶も、私がちゃんと残す」

「ありがとう、いおり」

初めて、名前を呼ばれた。


 その声はやわらかく、心にじんわりと染み込んでくる。

 死神としての自分が、こんなふうに人と関わっていいのか。迷いはあった。けれど、それでも――いおりは、目の前の少女から目を逸らすことができなかった。



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