第7話


「ただいまぁ」


 夜になって亜香里が寮に戻るけれど部屋の中から返事は返ってこない、まだ黎は帰って来ていないらしい。


 この時間にいないなら今日はもう帰ってこないなと今までの経験で辺りを付ける、はたして次に返ってくるのはいつになるのやら。


 でも、今日はそれで助かったかもしれない。


 あの後、黎のアトリエを後にして途中だった絵の続きを描くため共同アトリエへと向かった亜香里だったが正直あんまり身が入らなかった。


 作品と向き合う黎を見たときに感じたあの胸のざわつきがまだ胸の内で燻っている、チリチリと胸を焼くその正体を亜香里はまだ掴み切れていない。


「いま顔合わせたら絶対変な感じになっちゃうもんねー。とそんなことよりご飯ご飯と」


 気を紛らわせるように誰に言ってるのかも分からない独り言を言いながら亜香里が立ち上がると、脇に置いていたバックが倒れて中から黎のアトリエでもつかったあのスケッチブックが顔を出した。


 ふと思い立って亜香里はスケッチブック手に取ってパラパラとめくっていくとあるページでその手が止まる。


 そこに描かれているのは今日、亜香里がその目で見た黎の姿だった。


 鉛筆で書かれたスケッチブックの中の黎は視線はまっすぐに自身の作品を見据え、普段よりもずっと凜々しくて綺麗で――。


 ――ああそっか、そういう事なんだ。


 子供の頃から絵を描くのが好きだった、そしてそれと同じくらい絵を見るのも大好きだった。


 上手い下手にかかわらず誰かの描いた絵を見て、描いた人がその絵を描きながら何を思いそこに何を込めたのか、考えて想像するとワクワクする。


 亜香里は本質を見るのが上手いと黎は褒めてくれたけれど、もしそれが本当だとすればそれはたぶんこうやってずっと絵を見てきたからなのかもしれない。


 だから分かる、分かってしまった。

 

 湧き上がる気持ちの正体が分からなくて、それを静めようと戸惑いながら無心で描いたその絵に自分が無意識の内に込めて描いたものが。


 こうして絵を見ているるだけでドキドキと胸が高鳴る。


 真剣な瞳を、槌とのみを握るその手を、纏められた髪を、表情を音を時間を、あの時の事を思い出すだけで胸がしまる。


 私――。


「私。黎が好きなんだ」


 口にした瞬間ストンと何かが腑に落ちて、そうなるともうダメだった。


 思わずその場でかがみ込んで自分の頬に両手を当てるとやけどしそうなくらい熱い。


「……今、黎がいなくて良かった」


 だって、今は黎の顔をまともに見ることがとても出来そうになかったから。


 結局その日は胸がいっぱいで夕飯は喉を通らず、眠りにつこうにもドキドキしてなかなか寝付くことが出来なかった。


 あんたは初恋中の中学生か、大学生にもなってみっともない、恥を知りなさい恥を。


 そんなこと言ったってしょうがないじゃない、どうにかしようにもどうにも出来ないんだから。


 ベットでとても人様には聞かせられないような自問自答を胸の内で繰り広げながら、その日の夜が更けていく。


 せめて次に黎が帰ってくるまでには、もう少し落ち着いてくれていますように。


 そんなことを何かに願いながら、亜香里は吹きすさぶ嵐が過ぎ去るのを待つような心持ちでその夜は目を閉じた。


 それがほんの一ヶ月前、亜香里が恋に落ちたその日の出来事だった。

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