第6話

「ミケランジェロがそう言ったんだって。わたしさ見てると解るんだ、石の中にある心というか彫るべき形が」


「心? 形?」


「そ、石にはそれぞれ内包した感情や思いの形があって、見ているとなんとなくそれが見えて来る。見えてきた物の周りにある余計なものを削っていくと最後には石の感情だけが残るの」


「へ、へ~なるほど」


 解説をされても正直何を言ってるのか全然解らない。漠然と何を言いたいのかは解る気がするけど、つかみ所がなさ過ぎて全体像が判然としない。


 油絵で例えるなら、下書きもなしに真っ白なキャンバスを眺めていたらひとりでに絵が浮かんできて、それをなぞるように色を乗せて行けば作品が完成する、みたいな事なんだろうか?


 だとすればやっぱり彼女の言ってる事を理解するのは難しそうだ、だって亜香里がいくらキャンバスをじっと見つめたところで絵が浮かび上がってくることなんて無い。


 いっそ超能力じみた物にしか思えない様な感覚とセンス、でもそれはきっと黎にとっては当たり前の物なんだろう。


 つくづく彼女は天才なのだと実感する。


 なんだか気持ちが落ち着かない。芸術家としての黎を見ているとなんだか胸が高鳴ってそわそわしてしまう。


 この気持ちは一体何だろう? 知っている物のような気がするけれど、亜香里にはそれがなんなのかが掴めない。


 あーダメダメ、こういうときはあれをやって落ち着こう。


 正体不明の感情に浮かされながら、亜香里は自分の荷物からいつも持ち歩いているスケッチブックと鉛筆を取り出し、目の前にある黎の横顔を見つめ書き出していく。


 モヤモヤしたり考えが纏まらない時にはこうして絵を描くのが亜香里の昔から続く習慣だった。何もかもをいったん忘れて絵に没頭していると自然と心も落ち着いてくる。


 そうして黎の姿をスケッチし続けてようやく亜香里の心も落ち着きを取り戻した頃、ふと時間を確認してみれば十三時を既に回っていた。


 亜香里がアトリエに訪れた時間が十時頃だったので、もう既に三時間程経っている計算になる。


「わっもうこんな時間かぁ~」


 ノビをしていつの間にやら固まっていた体をほぐしている内に空腹感が顔を出してくる。


「ねぇ黎、そろそろお昼ご飯にしない? せっかくお弁当持ってきてあげたんだしさ」


「ん~」


「なに、いらないの?」


 視線を石材に向けたままの黎からあからさまな空返事を返されて、亜香里の声にちょっとだけムッとした気配が混ざる。


 亜香里だって作品制作の邪魔をしたいわけじゃない、でもそれはそれとしてせっかく一生懸命に作ったお弁当を邪険に扱われたら、機嫌が悪くなるのも仕方ないという物だろう。


「いや、食べたくないわけじゃないんだ。ただ今ちょっと手を放したくなくて、だから――」


 すぃと黎はその細くて白い綺麗な指で、自信の口元を指さして。


「食べさせてくれない?」


 と、そんなとんでもないお願いをされた。


「食べさせるって、私が? 黎に? その……あ、あーんってする的な?」


「あーんって、またついぞ聞かない表現だけど、まぁそういうことだね」


 まさかそんな事を頼まれるだなんて少しも考えておらず、亜香里は思わずその場で固まってしまう。


 え? 何? 私どうすればいいの? お弁当くらい自分で食べろってしかるべき? それとも作品作りに集中させる為にも食べさせてあげるべき? だけど、えーと、あー、うー。


 心のざわつきがようやく落ち着いて来ていたのに、思わぬ爆弾投下にまたぶり返して来てしまった。


 プチパニックになる亜香里だったが、当の爆弾投下犯はと言えば何食わぬ顔で。


「どうしたの? ほら、はーやーくー」


 そう言って親鳥から餌をねだる小鳥みたいに小さな口を開けてくる。


 考えが纏まらないまま亜香里は言われるがままに黎の横へちょこんと座り、テーブルなんてここにはないので膝の上にお弁当を広げた。


 落ち着け、落ち着くのよ私。ただご飯を食べさせてあげるだけ、何も変なことしようとしてるわけじゃないんだから、って変なことってなに!


「うーん、最初は卵焼きがいいかなー」


 人の気も知らないでこの野郎! 


 と思わないでもなかったが、亜香里は要望通り卵焼きを一口分箸でつまみ、震えそうになる手を必死に押さえながら黎の元へ持っていくと小さな口がパクリとそれを咥えゆっくりと租借していく。


「……美味しい」


 微笑みながら呟かれたその一言で心の中に光が差したような温かい幸福感を感じた、眠い目をこすってお弁当を作ってよかったと心から思えた。


 その一口目以降、黎一言も喋らなくなった。


 作りかけの作品を静かに見つめながら黙々と槌とのみを使って石材の余分な部分を少しづつ削りとっていく。


 亜香里にはまだそれが何を形どったものなのかはわからなかったが黎の中ではすでにイメージが出来上がっているのだろう、スローペースではあるがその手つきには迷いが無い。


 ただそんな中でも食事の事を忘れているわけではない様で、亜香里が箸を口元までもっていくと視線は石材へと向けたまま黎はそれをパクリと食べるのだ。


 その様子はまるで小動物への餌やりみたいで、傍から見るとシュールで少し可笑しい。


 そんな彼女の様子を見ているとなんだか遠い存在になってしまった黎が、また近くに返ってきてくれたみたいで亜香里はなぜだかちょっとだけホッとした気分になった。

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