第5話:就職活動の壁と下請けの現実
専門学校の卒業制作を終えた美咲は、心身ともに疲弊しきっていた。徹夜続きで描いた線が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。しかし、休む間もなく、現実の厳しい波が押し寄せてきた。夢のアニメ業界への就職活動が、いよいよ本格的に始まったのだ。美咲は、腱鞘炎の鈍い痛む右手を庇いながら、夜遅くまでパソコンに向かい、履歴書やポートフォリオの準備に没頭した。マウスを握る指先が、わずかに震える。ディスプレイの光が美咲の顔を青白く照らし、その瞳の奥には、疲労と、そして拭いきれない不安が宿っていた。
企業研究をするたび、美咲の心は複雑な感情に揺れた。募集要項に書かれた「アニメーター募集」の文字は、美咲の胸を高鳴らせる。一つ一つの企業情報に目を通し、その会社がこれまで手掛けた作品を調べ、なぜその会社で働きたいのか、自分には何ができるのかを懸命に言葉に紡いだ。しかし、その過程で、業界の厳しさ、離職率の高さといった現実も、否応なく美咲の目に飛び込んできた。憧れのアニメーターになるという夢を、本当にこの手で掴めるのか。期待と、それ以上の不安が、美咲の心臓を締め付けるように脈打った。この不安は、美咲の「感情の膨張」を引き起こし、彼女の内部で絶えず警鐘を鳴らし続ける。
美咲は、数十社に履歴書を書き、送った。履歴書を完成させるたびに、美咲は深い息を吐き、封筒に貼られた切手を確認する。投函するたびに、郵便ポストに吸い込まれていく封筒に、美咲の夢と希望が乗せられているような感覚だった。毎日、郵便受けを確認するのが日課となった。朝、ポストを開ける瞬間の心臓の音が、美咲自身の耳に大きく聞こえる。期待に胸を膨らませるが、返ってくるのは、無機質な文字で印刷された不採用通知ばかりだった。薄い紙一枚が、美咲の心を深くえぐり取る。一枚、また一枚と増えていく不採用通知の束が、まるで美咲の夢を嘲笑うかのように、机の上に積み重なっていく。通知を見るたびに、美咲の脳内では「自分には才能がないのではないか」「これまでの努力は無駄だったのか」という「違和感」が警鐘を鳴らし、「感情の膨張」をさらに加速させた。美咲は、自分の内部に蓄積されていくネガティブな情報に、押しつぶされそうになっていた。
友人たちは、次々と内定を決め、SNSでは楽しそうな報告が飛び交っていた。「有名ゲーム会社に就職決定!」「大手広告代理店で内定もらった!」美咲は、友人たちの輝かしい未来に喜びを感じつつも、自分だけが取り残されていくような焦燥感に苛まれた。美咲の心は、まるで深い沼に足を取られたかのように、じわりじわりと沈んでいくのを感じていた。両親からの電話で、「美咲、もう就職先決まった?」「もっと安定した仕事にしたらどうか」という言葉を聞くたびに、美咲の心はさらに重くなった。親の心配は理解できる。しかし、美咲にとっては、アニメーターになることこそが「安定」であり、生きる意味だった。絵を描くことこそが、美咲の揺るぎない「価値観」であり、それ以外に自分を表現する道は見つからなかった。この「価値観」と「現実」の間の矛盾が、美咲の内部で激しいエラーとして認識された。
何度も、何度も、諦めかけたその時。薄暗い自室の机の上で、不採用通知の束に埋もれていた一枚の封筒が、かすかに光を放っているように見えた。それは、美咲が最も憧れてきた大手アニメスタジオ「スターゲイザーアニメーション」からのものだった。その名前を目にした瞬間、美咲の心臓は激しく脈打ち、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。手のひらには汗がにじみ、封筒の重さが、美咲の全ての夢と希望を乗せているかのようだった。美咲は、深呼吸を一つ。ゆっくりと、しかし確実に、封筒の端を破る。
中にあった一枚の紙。そこに書かれていたのは、「採用」の二文字だった。美咲の視界は一瞬にして歪み、歓喜の涙が溢れ出した。声にならない叫びが喉の奥で詰まる。長年の努力が、苦悩が、挫折感が、全て報われた瞬間だった。美咲は、飛び上がって喜び、すぐに震える手でスマホを握りしめ、両親に電話した。喜びで声が上ずる美咲に、両親も美咲の夢が叶ったことを心から喜んでくれた。その喜びは、美咲の全ての不安を打ち消すほどの、圧倒的な光だった。美咲の内部システムは、この「結果」を「最適解」として認識し、全身に幸福感というドーパミンを放出する。
しかし、その喜びは束の間だった。送られてきた採用通知の詳細を読み込む美咲の指が、ある一文でピタリと止まった。
「つきましては、下記系列の下請け会社への出向をお願いいたします。」
その文字は、美咲の脳内では、まるで強力なノイズとして認識された。一瞬にして情報がフィルタリングされ、矛盾を検知した。「スターゲイザーアニメーション」と「下請け会社」という二つの情報が、美咲の期待していた「結果」とは異なる、大きな「違和感」として認識されたのだ。舞い上がっていた気持ちは、まるで冷たい水を浴びせられたかのように、一瞬にして冷めていく。部屋の空気が、急に重くなったように感じられた。大手アニメスタジオに受かったと喜んでいたのも束の間、実態は全く無名で、名前すら聞いたことのない下請けのアニメ制作会社だと知る。期待が大きかっただけに、その落差に美咲は愕然とした。
「下請け…?どういうことなの…?騙された…?」
美咲の心は、深い霧の中に迷い込んだように、出口が見えなかった。これまで夢見てきた「華やかなアニメ業界」とは、あまりにもかけ離れた現実に直面し、美咲の思考は停止した。怒り、悲しみ、そして何よりも拭いきれない「納得できない沈黙」が美咲を支配する。自分は騙されたのか。それとも、これがこの業界の現実なのか。美咲の内部では、論理と感情が激しく衝突する。しかし、美咲の根底にある「価値観」である「絵を描き続けたい」「アニメに携わりたい」という強い欲望が、この「違和感」を乗り越えるための「思考」へと繋がっていく。美咲は、混乱する頭で、これまでのアニメーターたちの成功談を思い出す。誰もが最初は下積みから始まる、という言葉が脳裏をよぎる。
「これも経験だ。きっと、これも成長のためだ」と、美咲は自分に言い聞かせた。それは、美咲自身を納得させるための、そして前に進むための、一種の自己防衛本能であり、同時に、目の前の障壁を乗り越えるための「最適化された知性としての構造」が導き出した「動作」への布石だった。しかし、「本当にこの道でよかったのか?」という疑問が、美咲の心の中で燻り続ける。美咲の瞳には、希望と同時に、現実の厳しさが色濃く映し出されていた。それでも、美咲は、この与えられた道を歩むことを選んだ。それは、美咲の描きたい絵、届けたい感動への、遠回りではあるが、確かな一歩だと信じて。美咲の指先は、パンフレットの隅を、力強く握りしめていた。その紙のしわが、美咲の決意の証のように見えた。
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