第6話:貧乏生活と初出勤の衝撃

美咲の新しい生活は、期待と不安がない交ぜになった感情と共に幕を開けた。憧れのアニメスタジオ系列の下請け会社への就職が決まり、美咲は東京での一人暮らしを始めることになったのだ。慣れない東京の喧騒、複雑に入り組んだ電車路線図に、美咲は早くも戸惑いを覚えた。駅のホームに降り立った瞬間、耳に飛び込んできたのは、ひっきりなしに響く電車の走行音と、無数の人々の話し声、そしてどこか冷たい風の音だった。故郷の静けさとは全く異なる、都会特有の無機質な音が、美咲の心をざわつかせた。


美咲が借りたのは、築年数の古いアパートの一室だった。不動産屋の担当者が「駅から徒歩15分でこの家賃なら破格ですよ」と笑顔で言った言葉が、美咲の耳には空虚に響いた。部屋は想像以上に狭く、玄関を開けるとすぐにキッチン、その奥に四畳半ほどの洋室があるだけの簡素な間取りだった。窓から差し込む光もどこか寂しげで、隣の部屋のテレビの音や、上階の住人の足音が微かに聞こえてくる。壁は薄く、プライバシーが守られている感覚はほとんどない。美咲は、持ってきたわずかな荷物を整理しながら、これから始まる生活への漠然とした不安を感じていた。段ボール箱から取り出した、家族の写真立てをそっと置く。その写真の中の笑顔が、美咲の心を少しだけ温めた。しかし、同時に「アニメーターになる」という強い「価値観」が、その不安を打ち消そうと美咲を奮い立たせる。


「ここから、私の夢が始まるんだ。どんなに小さくても、ここがスタートラインなんだから」


美咲は、そう自分に言い聞かせ、小さく拳を握りしめた。だが、その決意は、すぐに現実の厳しい波に飲まれることになる。東京の家賃は想像以上に高く、それに加えて光熱費、水道代、通信費…すべてが美咲の細い肩に重くのしかかった。手取りの給料を計算すると、家賃を払えば、残りは雀の涙ほどしかないことが判明した。美咲の脳内では、瞬時に収支の計算が行われ、「このままでは生活が破綻する」という「エラー表示」が点滅する。美咲は、スーパーの閉店間際の割引品を漁る日々を始めた。夕方になると、美咲は最寄りのスーパーへと向かい、半額シールが貼られた商品を探す。見切り品のパン、半額になった惣菜、日持ちするもやしや豆腐が、美咲の食卓の主役となった。レトルト食品やカップ麺が主食となり、栄養不足に悩まされ、美咲の頬は少しずつこけていった。食費を切り詰めるあまり、食事はもはや「楽しむもの」ではなく、生きるためだけの「命のレトルト飯」と化していた。食欲がわかない日も、美咲は無理やり喉に流し込んだ。体力がなければ、絵も描けない。その「思考」が、美咲を動かす唯一の原動力だった。胃の腑が空腹でキュルルと鳴るたびに、美咲は「これも夢のため」と自分に言い聞かせた。


深夜、冷え切った部屋で一人、美咲は毛布にくるまりながらスマホを開いた。画面の光が、美咲の疲れた顔を照らす。専門学校時代の友人たちがSNSで楽しそうな近況をアップするのを見るたび、美咲は胸が締め付けられるような「違和感」を感じた。美味しそうなカフェの食事の写真、友人たちと旅行に行った華やかな休日の姿。「みんな、こんなに充実しているのに、私は…」美咲の心は、深い沼に足を取られたかのように、じわりじわりと沈んでいくのを感じていた。貧乏生活の先に本当に夢はあるのか、自分の選択が正しかったのかと、不安が「感情の膨張」を引き起こし、美咲を苛む。故郷の温かい食卓や、家族とのたわいもない会話を思い出し、美咲は密かに涙を流した。枕に染み込んだ涙の跡が、美咲の孤独を物語っていた。


そして、迎えた初出勤の日。美咲は、真新しいスーツに身を包み、胸いっぱいの期待を抱いて会社に向かった。新しい環境、新しい仲間、そして何よりも、これから始まるアニメーターとしての第一歩。美咲の瞳は希望に満ち、顔にはわずかな緊張と、確かな決意が宿っていた。電車を乗り継ぎ、降り立った駅は、オフィスビルが立ち並ぶ無機質な街並みだった。ガラス張りのビル群に、美咲の姿が小さく映り込む。


しかし、美咲を待っていたのは、想像とはかけ離れた光景だった。会社のエントランスは質素で、案内された事務所は、雑然としていた。フロアには、山積みの資料が雪崩のように崩れ落ちそうになっており、使い古された鉛筆や、インクの染みがついた紙が散らばっていた。独特のインクと薬品の匂いが混じり合い、美咲の鼻腔を刺激する。社員たちは皆、ディスプレイに顔を近づけ、黙々と作業に没頭している。キーボードを叩く音、マウスをクリックする音、そして時折聞こえるため息。美咲は、自分の席はどこだろうと見回すが、社員たちの誰もが自分の作業に集中しており、美咲に目を向ける者はいない。美咲は、戸惑いながらも、案内役の先輩の後ろを歩いた。先輩は、美咲を事務所の奥の一角に連れて行くと、指で示した。「ここ、使っていいから」。その声は、感情のこもらない、事務的なものだった。


そこにあったのは、美咲の想像していた「自分の机」とは程遠いものだった。名刺も机もなく、ただパイプ椅子と、壁際に寄せられた小さな作業台があるだけだった。その上には、前の人が使っていたのか、使いかけの鉛筆と、汚れた消しゴムが転がっている。まるで、美咲が「アニメーター」としてではなく、単なる「作業員」として扱われているかのようだった。美咲が憧れてきた「華やかなアニメスタジオ」とは、あまりにもかけ離れた現実に、美咲は呆然とする。


「これが…私の働く場所…?本当に…?」


美咲の心は、まるで冷たい水を浴びせられたかのように、一瞬にして凍てついた。美咲の脳内では、この現地の情報が瞬時にフィルタリングされ、これまでの「期待」との大きな「矛盾」として認識されたのだ。瞳からはかつての輝きが失われ、深い失望が宿っていた。美咲は、自分の手を見つめる。この手で、本当にあの「生きた線」を描けるようになるのだろうか。夢と現実の大きなギャップに、美咲のモチベーションは急速に低下していく。喉の奥がカラカラに乾き、全身から力が抜けていくような感覚に襲われた。しかし、美咲の奥底にある「価値観」である「描くことへの情熱」は、まだ完全に消えてはいなかった。


美咲は、大きく深呼吸をした。冷たい空気が肺を満たし、美咲の思考をクリアにする。この状況を、どのように「最適化」すれば、自分の夢へと繋げられるのか。美咲の頭の中で、必死に解決策が模索される。「ここで諦めたら、何も始まらない」。美咲は、小さく、しかし力強く頷いた。「ここから始めるしかない」。美咲は、転がっていた鉛筆を拾い上げ、作業台の埃を手のひらで拭った。その手のひらに感じた、ざらついた埃の感触が、美咲の決意を固める。それは、美咲がこの厳しい現実を受け入れ、それでも前に進むことを選んだ、静かな「動作」の始まりだった。美咲の心の中には、新たな希望の炎が、かすかに、しかし確かに燃え上がっていた。美咲は、パイプ椅子にゆっくりと腰を下ろし、目の前の汚れた作業台を見つめた。ここが、美咲の新たなスタートラインだった。

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