第4話:描く苦しみと小さな支え

専門学校に入学して数ヶ月が経ち、美咲の日々は、まるで終わりの見えないマラソンのようだった。朝は鉛筆を握る指先の微かな震えで目覚め、夜は指にできた硬いマメと腱鞘炎の鈍い痛みで眠りにつく。基礎練習の繰り返しは、美咲の肉体と精神を少しずつ蝕んでいった。毎日、同じモチーフを何度も描かされ、鉛筆が紙を擦る「カリカリ」という音は、次第に美咲の焦燥を煽る不快な音へと変わっていった。描線は、入学当初に比べれば確かに安定してきたものの、美咲の求める「命」は宿らない。美咲が憧れたアニメーターたちの描く、躍動感あふれる線とは程遠い。疲労は蓄積し、美咲の瞳には、常に深いクマが色濃く浮かび上がっていた。鏡に映る自分の顔は、以前の輝きを失い、まるで別人のようだった。


「もっと、もっと上手くならないと…このままじゃダメだ…」


美咲は、そう自分に言い聞かせるたびに、心臓の奥が重く脈打つのを感じた。最初は純粋な喜びで満ちていた絵を描く行為が、いつしか苦行へと変わっていく。鉛筆の芯が紙を擦る音さえ、美咲には焦燥を煽る音に聞こえた。昼間、教室の窓から見える夕暮れは、美咲が部屋にこもって絵を描いている間に、友人たちが楽しそうに街を歩き、笑い合っている時間だった。美咲は、その光景を目にするたびに、「こんなに頑張って、本当に意味があるのかな」と自問自答を繰り返した。心の奥底で、小さな「違和感」が芽生え始めていた。「描くこと」が、こんなにも辛く、孤独なものだとは、入学前には想像もしていなかった。喜びよりも苦痛が上回る現状は、美咲の「価値観」である「絵で感動を生み出す」という原点との間に、大きな乖離を生み出していた。この乖離こそが、美咲の「感情の膨張」を加速させていく。


ある朝、美咲はベッドから起き上がろうとした瞬間、右手にこれまで経験したことのない鋭い痛みが走った。指先から手首、そして肘にかけて、まるで熱い電流が走ったかのような激痛だった。美咲は思わず鉛筆を取り落とし、右手を強く握りしめたが、その痛みは引かない。手首を動かすだけで激しい痛みが走り、鉛筆を持つことすらできない。慌てて病院に行くと、医師からは冷厳な言葉が告げられた。「腱鞘炎の初期段階です。このままだと、アニメーターとして絵を描き続けることは難しくなりますよ」。その言葉は、美咲にとって死刑宣告にも等しかった。絵を描くことができない。それは、美咲にとって生きる意味を失うことだった。全身から血の気が引く感覚に襲われ、美咲は顔面蒼白になった。ベッドに横たわり、白い天井を見つめる。病院の天井は、美咲の心と同じように、何の模様も描かれていないように見えた。絶望感と、これまでの努力が無駄になるかもしれないという恐怖が、美咲の「感情の膨張」を引き起こした。瞳からは、止めどなく熱い涙が溢れ、枕を濡らした。


数日後、自宅で療養している美咲の元に、突然、ピンポーンとチャイムが鳴った。美咲は、こんな時に誰が来るのだろうと思いながら、重い足取りでドアを開けた。そこには、寡黙な同級生、悠斗が立っていた。彼は口数は少ないが、その手にはコンビニの袋が提げられていた。中には、美咲が好きだったミルクチョコレートと、温かい缶コーヒーが入っている。「これ…よかったら」悠斗はそれだけ言って、美咲に袋を手渡した。彼の差し出してくれた缶コーヒーの温かさが、美咲の冷え切った心にじんわりと染み渡る。悠斗は何も言わず、ただ美咲の部屋の片隅に座ってくれた。彼の存在は、まるで無音の応援歌のようだった。美咲は、悠斗が自分の異変に気づいて、わざわざ見舞いに来てくれたことに、言いようのない安堵と感謝の念を抱いた。その静かな存在が、美咲にとって何よりも大きな支えとなった。孤独な戦いではないことを知り、美咲の心に温かい光が灯った。それは、美咲の「価値観」である「絵を通じて感動を分かち合う」という思いが、新たな形で結実するきっかけだった。


深夜、痛みで眠れない美咲は、ふと枕元のスマホに目をやった。悠斗の無言の励ましは嬉しかったが、やはり心底からの不安は拭えない。美咲は、誰かの声が聞きたかった。頭の中では、「親には心配をかけたくない」「友人にも弱音を吐きたくない」という「思考」がフィルタリングされ、最も適切な連絡先を探し始める。しかし、この状況は一人で抱えきれるものではない。迷った末、美咲は実家の母親に電話をかけた。呼び出し音が長く続く。美咲の心臓は、不安で大きく脈打っていた。やがて、聞こえてきたのは、遠く離れた故郷から届く、母親の優しい声だった。特に用件はない。ただ、たわいもない日常の会話をしていた美咲だったが、母親の優しい声を聞いた途端、美咲の感情の堰は決壊し、止めどなく熱い涙が溢れ出した。母親は何も聞かず、ただ「美咲、頑張っているね。偉いね」とだけ言ってくれた。その言葉が、美咲の心を温かく包み込み、美咲は「まだ頑張れる。私には支えがある」と、かすかな希望を抱いた。母親の言葉は、美咲の「思考」に「私には支えがある」という確信を与え、「動作」として「再び絵に向き合う」ことを促した。


肉体的な痛みと精神的な疲労に苛まれながらも、美咲は絵を描くことを諦めなかった。悠斗の存在と、母親の温かい言葉が、美咲を支える小さな光となっていた。彼らの存在が、美咲の「価値観」である「夢を叶える」という決意をより強固なものにしたのだ。美咲は、痛む右手を庇いながら、左手で簡単なスケッチを始めたり、利き手ではない指で鉛筆を握る練習をしたりと、できる限りのことを続けた。美咲は、まだ見ぬ未来の自分を信じ、再び鉛筆を握り直した。その手はまだ震えているが、その瞳には、確かな決意が宿っていた。それは、苦しみを乗り越え、より強く、しなやかになった美咲の姿だった。美咲の心の中で、「違和感」と「感情の膨張」は、「助走」となって、美咲を次のステージへと押し上げていくのだった。美咲は、痛む指先を見つめながら、この痛みが決して無駄ではないことを、強く心に刻んだ。

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