第5話
一体いつからそこにいたんだと言いたくなる。
まさか夕方からずっといたんじゃないだろうなと思うが、今日は何度か
副官が見ていたら報告するように言っているので、その報告も今日は受けていない。
何かとジッとしていない男だったが、そう言えば今日は朝に一度見かけて挨拶して以降、こいつを見ていなかった。
ふと、何となく妙に心が落ち着かなかった理由の一端に、何かと寒空をうろついて心配させていた郭嘉を、今日は見ていなかったことも関わっているのではないかと気付いた。
特に用事はなかったのだが、いつからいたのか気になって、歩いて行く。
「郭嘉」
郭嘉は目を閉じていた。
「こら」
賈詡は郭嘉の膝の裏辺りを軽く蹴った。
「まだ寝てなかったの」
目を閉じたまま郭嘉が笑っている。
「寝てたけど起きてちょっと夜風に当たってただけだ。今から幕舎に帰る。
おまえ。今日は一日大人しくしてると思ったらなーに一番寒い時に外に出て来て
「今日はなんだか籠もって色々考えたくて、ずっと幕舎の中にいたよ」
ようやく瞳を開き、郭嘉がこちらを見た。
相変わらず戦場で
一応は外套を着込んで、喉元にも布を巻いていたが、どうにもこいつが寒空の下で佇んでると心配になる。
ギュッ、と締められてはいたが、少しだけ見えていた首の隙間を埋めるように郭嘉の襟を強く引いてから、尋ねる。
「お前はいつからいたんだよ。
俺は十分くらいしかいなかったぞ。
それでも、こんなにもう指先が冷たい。
あんたはどうしてそう心配ばっかさせるかねえ」
郭嘉は微笑んでいたが口は閉ざした。
答える気はないようだ。
つまり、十分かそこらではないのだろう。
賈詡が起きて来たのは、妙な胸騒ぎがあったからだ。
そう考えると何となく、郭嘉が外にいるような気がしていた、そんな風に思えてくる。
「分かったよ。白状する。
俺はちょっと煮詰まってた。っていうか、
何も起こらないもんだから、少し手をこまねいてる。
敵の動きがあまりに無くてな。
北に放った斥候が、若干だが遅れてる。
今日戻ってくると思ったんだが。
……いや。気にするほどの遅れじゃ無いんだよ。
見るべきものを見て来てくれてるってことなんだろうからな。
明日くらいには戻るだろうから、別に心配はしていないんだが」
「要するに、やりたいことがいっぱいありすぎるんだね」
賈詡は手を打った。
「それだ。そうなんだよ。やりたいこと山ほどあんだ。
何していいか分からないんじゃない。やりたいことを早くやりたいんだが、あれを待ってからとか、これが分かってからとかが多くてな。
すっきりしないんだよ。
こういうのが一番困る。気が急くっていうのか?
俺は別にせっかちってわけじゃないんだけどよ」
「戦は急ぐのは禁物だよって言われたい? 言われたくないかな?」
「言われたくないから言わんでいい」
「分かった」
賈詡は腕を組んだ。
「あんたとこうやって出陣するのは【
城じゃあんたは女の尻追いかけ回して落ち着きの無い人だけど、陣ではさすがに落ち着いたもんだね」
「まあ戦場に女性のお尻はないからね」
「あったら追うのかお前は……」
郭嘉が空を見上げて息をすると、白くなるのが分かった。
「幕舎に戻るぞ」
「もう少しいる」
「駄目だ。一度戻って、茶を飲んでから寝て、暖まって明け方に出てこい」
「明日から賈詡の出てこない時間に出てくることにする」
袖を引っ張って引きずられて、郭嘉は唇を尖らせた。
「残念でした。俺は神出鬼没だから出てくる時間とかないもんね」
「私の幕舎はあっちだよ」
「俺の幕舎で寝ろ。どうせヤンチャ小僧のことだから幕舎に帰った後、数分後舌出しながらまた出てくるつもりだろ」
「出てこないってば」
「信じてやるにはお前は前科がありすぎる」
「分かった分かった。見張りに注意しておけばいいでしょ」
「お前の幕舎を守ってる奴なんかとっくにお前に買収されてるに決まってんだろ。
信用出来んね」
「人と寝るの嫌いなんだ」
賈詡の幕舎の前に来ても、まだ郭嘉が抵抗したので賈詡はベッ、と舌を出してやった。
「毎日女の身体を枕にして寝てるくせに何言ってんだ。
「賈詡の幕舎で一緒に寝るのなんか嫌だなあ」
「それは単なる悪口だ。諦めて入れ~!」
賈詡は側で火の番をしている兵士のところから湧かした湯を二つ貰って来た。
幕舎に戻ると、賈詡が地図を広げっぱなしにしていた机の端に腰掛けて、眺めていた。
「ほら。少しでもいいから飲んでから寝ろ」
「ありがとう」
郭嘉は素直に受け取って一口飲んだが、やがて机の椅子に腰掛けた。
「もうちょっと起きて見てる」
「あっそ……いいよ。寒空の下じゃないなら。好きにしな。
俺はもう寝るからな」
賈詡は欠伸をして自分の寝床に入った。
賈詡の幕舎は補佐官が残ることもあるので、もう一つ寝床が必ず用意されていた。
毛布に包まって、目を閉じる。
数分そうしていたが目を開き、横を見ると、郭嘉は椀を持ったまま片手で頬杖をついてまだ地図を見ていた。
口を開くと色々喋るやかましい小生意気な若造なのだが、口を閉ざして物思いに耽っている姿は、さすがに遠征に出ると言うだけで許都の城中の女達を涙いっぱい悲嘆に暮れさせるだけある。
整った端正な横顔に、蝋の火に照らされると薄い色の髪が溶けるように輝いて見えた。
ここに女がいたらきゃあきゃあ言うんだろうがな、と賈詡は苦笑した。
「……あのさぁ……先生。ちょっと相談なんだが。
いや、明日にでもしようと思ってたんだが、丁度あんたが外にいたからな。
実は追加で、
「そう」
こいつがこの反応なら、別に悪かないってこいつも思ってるってことか。
「まあ二人のどっちかが来てくれれば十分なんだがな。
……俺は出来れば荀彧を呼びたい。
今までじゃ手が空かなかったと思うが、今なら呼べばあいつ来ると思うか?」
郭嘉はまだこちらを見なかったが、少し目元に掛かっていた前髪ごと指で掻き上げて、そのまま額を抑えるような仕草を見せた。
「……それはどうだろうね」
今のは感情が見えた。
「来ないと思うか?」
「いや。貴方がどうしてもと呼べば来ないことはないと思うけど。
今、
郭嘉はようやく地図から視線を外し、何となく前を向いて話した。
「それは……殿のことか?」
「主にね。でも自分自身の迷いもある。
貴方がどうしても文若殿を呼びたいなら私は止めないけど、私の希望を言わせて貰えるなら、呼んでは欲しくないかな」
郭嘉がこちらを見る。
「どうしたの。驚いた顔して」
笑っている。
「いや。驚いたわけじゃ無いが……はっきり呼んでほしくないと言われると思わなくて。
あんた
「許都の城はね。
それはそうだよ。文若殿は曹操軍の重鎮だけれど、まだ老け込むような歳じゃ全然無い。
戦場はまた別だ。
文若殿も剣はそれなりに使うけど、あの人の剣はあくまでも護身用だよ。
戦場にいると、少し私が気になる」
「んでも、今までも何度も一緒に荀彧とは出陣して来ただろ?」
「うん。何回もね。だから今回はだよ。
別に今まで文若殿が戦場で足手まといになったとか、そんなことは一度も無い。
ただ……今はあの人を戦場に置きたくないんだ。なんとなく」
「じゃあ
郭嘉は笑いながら答えた。
「
「俺が二人を呼びたいって言った理由、分かってるか?」
「貴方自身がもう少し自由に動き回れるようになりたいんでしょう。
「うんまあその通りなんだが」
「私が見ててあげるよ。何か見て来たいところがあるなら行ってくればいい。
貴方が本陣を留守にしてる間は、私が多方面を見ておいてあげるから。
今回は私は貴方の副官なんだし」
「いや。自分で言っといてなんだがすっかりそのこと忘れてたわ。やたら存在感があるの止めてくんないかな先生」
「もっと私を信頼してよ。賈詡。自分自身のことも。
今回の総指揮権は貴方が持ってる。それはよく理解しているから」
「信頼してないわけじゃ……まあ無いんだが。細かい、つまらん心配ばかり掛けるからなあんた。戦が始まれば頼りがいがあるんだろうが」
「私は平時でもとても頼りになるよ」
「あの……先生、悪いんだけど側にある燭台もっと離して貰っていいかな?
あんたの笑顔がまばゆいばかりに照らされて眼がチカチカする。輝かないで」
「もう寝なよ」
「あんたもだぞ。っていうか俺はさっきまでちゃんと寝てた。どちらかというとあんたの方だぞ」
「分かってるってば」
「なんかお前は信用ならんのだよな……。くそ。俺も
「
じゃないと涼州遠征終わる頃には二人とも禿げて来るってさ」
「やはりか! やはりそうなんだな⁉ やっぱり
「別に手には余ってないよ。元譲殿は最初から私のことは『お前の面倒は見ない』って放っておいてくれた。本当に放っておかれたよ。戦場をウロウロしてても全然心配されなかった」
「……あの人も色々と問題ありの考え方してるよな。
「元譲殿は殿が無事ならそれでいいんだよ。戦場において目的が明確だから迷いが無い。
だから賈詡も
総大将の司馬懿殿の無事だけ考えてたら悩み事格段に減るよ」
「総大将の司馬懿殿の無事だけ考えて他が全然無事じゃなかったら、
「ううん。賈詡が処刑されるところは別に私は全然見たくない。全然面白くなさそうだし」
「うん……。心配してくれてどうもありがとう……。しかし見たくない理由がなんか若干腹立つな……」
「もう寝なってば」
郭嘉が苦笑している。
「貴方はあれかな? 案外退屈凌ぎに私をからかって遊んでいるのかな? そうしたら逆に策士だね」
「心配するな。お前をからかって遊ぶほど総指揮権任されてる俺様は今回暇じゃない。
引っ張って来たのもたまたま寒空の下で凍えてるお前を発見したからだ。これでお前風邪引いたらホントに指差して馬鹿っつって嘲笑ってやるからな」
「風邪なんか引かないよ。私は大病はしたけど、元々寝込んだりはしない子供だった」
「へぇ。そうなのか」
「そうだよ。だから大病したからって病弱みたいに単純に思わないで」
「いやまあそういうわけではないんだが。……まあちょっとはあるけど。
んでもうちの何番目かの兄貴も以前は病気も掛かったこと無かったが一度大病を患ってから身体が弱くなったんだよ。そういうこともあったからつい……」
「貴方のお兄さんはそうかもしれないけど、私はそうとは限らないでしょ」
「まあそうだが……。でもなあ、ほんと寒い中でぼーっとするのはやめろって。
頑丈な人間でもそんなことしてたら体調崩すってことを俺は言ってんだ」
「分かったよ。心配してくれてありがとう」
郭嘉が寝負けしたようにため息をついて笑った。
「……本当はお前の面倒も見てほしいから荀家のどっちかが来てほしいんだがな……」
毛布に厚く包まって、賈詡は光に背を向け、目を閉じた。
「早く寝ろよ」
目を閉じて声だけでそう言うと『おやすみ』という郭嘉の声が聞こえた。
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