第4話
――少し、胸騒ぎがその日はあった。
別に何かが起きたわけでは無い。
あえて言うなら、北へ放った斥候の帰りが遅れていた。
今日中に戻るかと思っていたからだ。
しかし見るべきものは全部見てこいと送り出したので、多少遅れるのは想定済みだったはずだから、そんなに気にすることではなかった。
今日では無くとも、明日の早い内につけば、大した遅れではない。
放った斥候は普段
離れた所に陣を張っている
魏軍の重鎮なので、こまめに伝令を送ってくれなどとはなかなか賈詡からは言いにくい立場だったのだが、張遼はこちらがそんなことを言わずともそういう伝令を送ってくる。
彼は戦場ではいつもそうするわけではないので、やはり今回の涼州遠征は
張遼の強みは、戦場戦場によって、最も適した布陣や隊形を、軍師が逐一指示せずとも己でそれをやってくれる所だった。
そしてそれを理論というより本能的に行うところがいいのだ。
気付いたら自分のやってほしいことを、張遼がしている。
そういう時にはやはり並の武将では無いと強く感じる。
更に南には【
築城の動きに入っている
祁山にも見張りがついたので、これで北方の監視も強化される。
夕方の伝令で、近隣の村の調査に出ていた
徐庶の言った通り、かなり小さな村は多い。
こちらは北に放った斥候の遅れとは違って、
二人は今日は張遼の陣に帰還して、そちらで休んでいる。
自分の予想を超える早さで、徐庶と陸議は広範囲を自分たちの足で網羅し終えた。
(あの二人は案外使えるかもしれん)
徐庶は旅慣れているようだったし、涼州に来たとも言っていたからある程度はと思っていたが、
(あいつは育ちが良さそうな顔で
大将殿が
一度あいつがどういうことが出来るのか、話を聞いてみた方がいいかもしれない。
俺は陸伯言を温室育ちだと思いすぎてるのかも)
明日は
あの二人は時間を無駄にしないので、訳も無く本陣に一度帰還させる方が無駄な動きというものだ。
(斥候が今日戻っていたらな。明日の朝早くに伝令を出し、徐庶と陸議に任を与えられたんだが。
北にいる涼州騎馬隊の動きが分からん限りは迂闊に動かせん。
まだ南に展開してないとも言い切れない。
張遼を南に布陣させているから、本陣の背後を取られる心配はないだろうが、涼州騎馬隊は少数精鋭で広範囲に散らばり、それでも連携行動が取れる。
【
西の山道は森も深く、かなり近くに来ないと
今考えられる危険地帯は西だ。
涼州騎馬隊がもし俺達を狙うなら、西からだろう)
斥候がその動きを掴んでほしい。
全てが韓遂の指揮下でなくとも、どういった動きを涼州全体でしているのかが分かるはずなのだ。
それがまだ完全に捉えきれないから、気がどこか急いているのか。
目を閉じていた賈詡は、そっと瞳を開いた。
起き上がり軽く着替え、首元に布を巻いて上着を着込み、幕舎を出た。
見張りが一礼したが、ちょっと見て来るだけだからそのままでいい、という仕草を見せ、賈詡はゆっくり歩き出す。
まず空を見た。
星の海だ。
この美しい星の海も、俺の感覚を狂わせてるんだ。
賈詡は気付いた。
涼州入りしてからずっと晴れている。
――これは極めて珍しいことなのだ。
比較的だが温かく、朝から夜まで晴れていて、この天候の良さが、魏軍に『なんだ覚悟して来たが涼州の天候はこんなものか』という油断を植え付けて来ている。
涼州騎馬隊の姿を一度も見ていない。
……普通は不気味がり警戒を強めるものだが、談笑している兵達が増えている。
(良くないな……)
同じ場所に安定した状態でこれ以上いると、どんどん軍が腑抜けて行く。
いっそもう少し
(張遼の陣は士気は落ちていないし、あいつらならある程度険しい山岳地帯も移動は可能なはず)
落ち着きの無い様子を兵達に見せないのは賢いと思うし、時折幕舎に訪ねて行くと、案外地図を見ながら何かしら考えている様子なので、集中出来ているなら問題ないということだ。
(いっそあいつを副官のように考えて動かしてみるか)
状況を打破したい
司馬懿も別に総大将として祭り上げられていたいなどと思う性格はしていない。
このまま動きが無ければ成都までいっそ行きたいと言っていたほどだ。退屈が凌げるなら賈詡が命じても怖い顔などはしないに違いない。
(ただあいつは一人でやらせると暴走させるかもしれんからなぁ)
一人で行動させて「動きが無いから火をつけてきたわ」などとあっさり言われても困る。
司馬懿には誰かをつけなくてはならない。
徐庶なら無謀なことはさせないと思うが、徐庶の欠点は主体性が無いことだ。
司馬懿が「総大将に逆らうな」と言ったら、黙る可能性がある。その点徐庶は全く信用出来なかった。
礼儀正しく従順だが、司馬懿に命じられたら何でもやる人間では、側に置いても意味が無い。
陸議は徐庶や
(郭嘉か)
賈詡は少し眉を寄せた。
(劇薬だな。あいつは
場合によっては
なんせ楽しい戦が大好きな坊やだからなあ……、涼州を発端に、
司馬懿に乗せられるような馬鹿ではないのは分かるが、郭嘉の場合、自分の欲が勝れば『総大将の貴方が言うなら』などとこんな時だけ乗せられた「フリ」をして、
それだけは釘を刺しておかんと、あの二人の組み合わせは諸刃の剣だ)
ここに来て、もう一人誰か将官を連れてくるべきだったと
張遼は、司馬懿と郭嘉の側に置くと睨みを利かせてくれるが、涼州では張遼は動いて貰わなければならない。
二人のお守りに連れて来たわけではないのだ。
(くそ。見送りに来た
手の届く所まで来ていただけに、思わず舌打ちが出る。
あの二人なら郭嘉の側に置けば、郭嘉がはしゃごうとしたら「こら」の一言で止められる。
正しい状況判断が出来る。
それに本陣に置いておけば、逆に俺が動いてくるわと賈詡がもっと自分の意志で動けるようにもなる。
あの二人のどちらかが今、欲しかった。
賈詡自身も正直、動か静なら動の人間なのだ。
開戦してるところに送り込まれるのなら、本陣に据え置かれても全く構わないが、まだ戦が始まってないなら自ら動き、仕掛ける土台から整えるのが好きなのである。
十分な布陣かと思ったが早くも駒の数で「足りねえ」と思ってしまった。
何も起こっていない今が分岐点だな。
増援を頼んだら必ず理由を聞かれる。
「別に何も起きてないんだが人を送ってほしい」などと言っても、送ってくれるかは五分五分だ。
ただ涼州遠征を警戒していたので、自分が言うならば何が起こっていなくても、今回は送ってくれるかもしれない。あの男はそういうところは臨機応変に機転は利く。
いや。単なる人じゃ駄目なのだ。
お前か
だが
頭痛がして来そうだ。
目を閉じ額を抑えて、しばらく考え――目を開いた。
(この際俺が
涼州での任務を大成功に収めればいいんだ。これで意地を張って大きな損害を出すことに繋がったら、いずれにせよ
荀攸を呼ぶか。
ふと荀彧が、
当時の騒ぎは知っていたが、曹操が帝位に就いてからは荀彧は不満を見せず公務に戻っているので、今は二人の不仲などは囁かれていない。
荀彧が見せないようにしているからねと
それが本当なら、案外
(荀彧はいいな)
あの男がこの本陣にいる姿を想像して賈詡は腕を組み、唸った。
郭嘉同様「
下手な戦は決して出来ない、という。
荀彧は文官だが、
武官の意図を驚くほど的確に察知する。
要するに荀攸は長安でも戦場でも、全く同じ優れた仕事をする。
――だが長安で気に障らないことが涼州では気に障る、そういうのが戦場なのである。
賈詡でさえ、言葉に上手くならない何かを察知して不安に駆られている。
それを荀攸は言葉ではっきり求めて来るので、ここにいたら殴り合いの喧嘩になりそうである。
荀彧は「上手く言葉に出来んが」と言えば、自ずと察知してくれる領域が広いため、不安に駆られている時に問答せずスッ、と「分かりました」と返事が返るのはいい。
荀攸の考えは荀彧に近いので、あの男に聞いても意義はあるが、そういう場合荀彧は戦術的な観点だけではなくもっと様々な視点で利があるかどうかを判断してくれるため、有意義な議論になる。
ぜひ、もっと建設的で有意義な議論に
最初は荀家のどっちかがとにかく来てくれと思っていたが、考えるうちに今では荀彧に針が傾いている。
(
少しやるべきことが決まり、頭の中が落ち着いた。
遠征軍でやることがないのは本当にいかん。
やれやれ、といい感じに冷えてきた身体と共に、見通せない夜闇に沈む西の方を見ていた賈詡は背を向け、自分の幕舎へと戻ろうとした。
――――ふと見た方角の先に、佇んでいる。
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