第6話 死相

「だから言っただろう? キミには死相が出てるって」


 フェンスに座りながら、俺を見下ろすァル子さん。

 夕陽も消え去り、簡易的な照明だけがプールサイドを照らす。

 静かな夜風が、ァル子さんの長い髪を妖しげに揺らしていた。


 まほろばと美良崎は、動揺する俺に気付かない。

 二人の談笑する声も、不思議と遠く聞こえた。


「いやいや、死相ってそんな、大げさだろ」

「いいや、ミトル。キミは一つ間違いを犯した。【ゼッコーアプリ】の規約違反だよ。だから、キミは【観測】されたんだ」

「規約違反って、そんなこと……」


 俺は飛び込み台に腰掛け、【ゼッコーアプリ】の規約に目を走らせる。

 そこにあったのは──


「【ブロック】を用い【ゼッコー】した相手と、仲直りしてはならない」

「【ゼッコーアプリ】を削除してはならない」

 という文言だった。


「ミトル、キミは良かれと思ってイジメ問題を解決し、仲直りの手伝いをしたんだろうね。でも、違反者には罰則が定められてる。それは誰にも止めることはできない」

「んなこと言ったって、二人がケンカしたままなのは違うだろ!」

「気を悪くしないでくれ、ミトル。別にボクはキミを攻めようってワケじゃない」

 ァル子さんは小さく笑い、俺に拍手をする。


「ボクは楽しみなんだよ。キミがこれから、どうなるのか」

「お前、『自分以外に呪われるな』って俺に言ってたよな?」

「確かにそうだよ。よく覚えててくれたね。でも、ボクは寛容なんだ。キミが呪われてどうにかなるのを、見てみたい気持ちもある」


 どこまで本気だ?

 何言ってんだ、コイツは。

 額の汗をぬぐい、俺は視界の片隅に目を向ける。

 スマホ画面には大量の着信履歴と留守番電話の通知。

 でも、


 これが【不条理存在】からの干渉って決まったワケじゃないよな。

 ァル子さんが、俺をビビらせるために言ったオドシかもしんないし。

 焦る心を落ち着かせながら、俺は留守番メッセージに耳をかたむけた。


 スピーカーから聞こえてくるのは、砂嵐のようなノイズ。いや、

 それだけじゃない。


「■■て。■■て」


 ノイズに混じって、誰かの声が聞こえる。

 か細い、女性の声。

 セミにかき消されちまいそうな小さな声だ。

 留守番電話の女性は、一つの言葉を必死に訴えかけている。


 て?

 「助けて」とか「やめて」とかか?

 いや、そんなこと考えても仕方ねェか。

 イタズラ程度の怪異現象、日常茶飯事だ。


「残念だったな、ァル子さん。これくらいじゃ驚かないぜ、俺は」

 俺は顔を上げ、彼女に語りかける。

 そのつもりだった。けれど、


 フェンスの上にァル子さんの姿は無い。


 神出鬼没なヤツだな、相変わらず。

 俺はスマホを耳に当てたまま、まほろばたちに視線を、

 向けようとした。

 でも、


 もう、

 プールサイドには、

 誰もいない。


「まほろば? 美良崎?」

 お手洗いの方へ呼びかける。けど、


 何の返事も無かった。

 聞こえるのは、うるさいセミの声と、

 留守番電話のノイズだけだ。


 とりあえず、まほろばに通話かけてみるか。

 俺はスマホから耳を離し、留守番メッセージを止め──

 ようとしたところで──


 ぴとり。

 俺の背中に、何かが触れた。


 羽虫か?

 いや、まほろばか?

 俺を驚かそうと、死角に隠れて待機してたとか、な。

 と、振り向こうとした時に気付く。


 ありえない。

 俺は今、プールの飛び込み台に腰を掛けてるんだ。

 つまり、俺の背後にはプールが広がってる。だから、


 だ。

 そこで初めて聞き取れた、

 留守番メッセージが何を言っていたのかを。


「逃げて。逃げて」


 刹那──

 【ナニカ】の指先が俺の背中をカリカリと引っ掻いた。

 俺を水中に引きずり込もうと、何かを求めるように。


 ぞくり。

 全身に寒気が走る。


 この女性は、俺に「逃げろ」と訴えかけてたんだ。

 背後にいる【ナニカ】から。


 だから駆け出した、俺は。

 そこがプールサイドだってこともお構いなしに。

 廊下に置いたスクールバッグも拾わず。

 俺は、ひたすらに駆けた。

 背後の【ナニカ】から、できるだけ距離を取ろうと。


 とにかく、職員室だ。

 まだ部活は終わったばかり。

 先生に助けを求めれば、流石に安全だろ。


 廊下を駆け、階段を上がり、俺は職員室へ向かって走る。

 真っ暗な校舎の中、職員室から漏れる明かりだけが頼りだった。


 誰かが追ってくる気配も無い。

 【ナニカ】は諦めたのか?

 ま、目的地にも着いたし、とにかく安心だな。

 俺は少し安堵しながら、職員室の扉を開いた。


 教科書やプリントが積み上がった、いくつものデスク。

 それらを照らす照明。なのに、


 誰もいない。


 そうだよな。

 おかしかったんだ、初めから。

 下校時刻とはいえ、廊下で誰ともすれ違わないなんてありえない。

 ァル子さんも言ってたよな、「違反者には罰則が定められてる」って。


 つまり俺は今、【不条理存在】の【改変】を受けている。

 その時──


 ひた。ひた。

 と、廊下から足音が聞こえた。

 濡れた足のまま誰かが歩いているような、そんな音だ。


 さっきのメッセージを信じるなら、追いつかれたらマズい。

 とにかく、どこかに隠れるんだ。


 俺は近くのデスク下に隠れ、廊下の様子をうかがう。

 開けっ放しの扉。

 職員室の外は照明なんて一切ついていない。

 夕陽も完全に沈んだ闇のトバリで、【ナニカ】の足音だけが怪しげに響いていた。


 一体、は何なんだ?

 それに、学校のヤツらはどこに消えたんだ?

 俺は胸に下げたお守りを握りしめ、必死に頭を回す。

 けれど──


 俺が答えを導くよりも、【ナニカ】の足の方が早かった。

 ぴたり。

 職員室の前で足音が止まる。


 一体、何が俺の後を……?

 机に隠れたまま、俺はおそるおそる視線を外に向けた。なのに、

 そこには何もいない。


 見逃した?

 いや、そもそも【ナニカ】なんて気のせいだったのか?

 俺は肩の力を抜き、息を大きく吐いた。

 瞬間──


 ぎしぎし。

 床を軋ませながら、何かが職員室を闊歩する。なのに、

 その姿は見えない。


 理解した。

 俺は机の下、スマホで【ゼッコーアプリ】の規約画面を開く。

 罰則の項目には、「違反者は相互ブロック扱いとなる」という記述。

 つまり俺は、ワケだ。


 なんだよ。

 なら、さっきの足音も焦るほどじゃない。

 きっと、見えない誰かの気配を、過剰にビビッてただけか。

 後を追う【ナニカ】なんて存在しなかったんだ。


 スマホをポケットにしまい、俺は机の下から這い出た。

 すると、

 足音は俺の目の前で止まり、しばらくの沈黙が流れる。


 先生……だよな、きっと。

 でも、向こうから俺は認識されてないハズだ。

 何か考え事か?

 その時、


 かりかり。

 と、何かが制服の腹をひっかいた。

 たまたまか……?

 いや──


 瞬時に脳裏を過ぎったのは、プールでの記憶。

 あの時、俺はプールを背に、飛び込み台に腰掛けていた。

 それなのに、【ナニカ】は俺の背後から服をひっかいてきた。


 それだけはアリエナイだろ……!

 俺が他人を認識できなくなっただけじゃ説明つかない。

 普通の人間に混ざって、見えない【ナニカ】が俺を追っている……ッ!


 刹那──

 デスクのペン立てから引き抜かれた何かが、大きく振り上げられた。

 きらり。

 照明を跳ね返したのは、一本のコンパス。

 その切っ先は鋭く尖り、冷ややかに光っている。


 俺を殺す気だ……!

 とっさに一歩後ずさりし、【ナニカ】から距離を取る。

 次の瞬間、コンパスは俺のいた場所をかすめ、そのままデスクに突き刺さった。


 ここから逃げるんだ!

 殺される……!

 とにかく、【ナニカ】から距離を取らないと……!

 俺は身をひるがえし、職員室を飛び出した。


 だが、どうする?

 俺は、どこに逃げたらいい?

 真っ暗な廊下を走りながら、俺は必死に頭を働かせる。

 少なくとも、このまま学校にいたらダメだ。


 昇降口に着くや否や、俺は慌てて靴を取り出す。

 その時、俺のスマホが着信した。


 まさか、さっきの……?

 でも、留守番電話の女性は、俺に「逃げて」と促してた。

 なら、信じてもいいのか?


 おそるおそるスマホを取る。

 画面に表示されていたのは「まほろ」の文字だった。

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