第5話 規約違反
夕闇の中のプールサイド。
てらてらと光を返す水面は、夜の闇がにじんで不気味に感じる。
生ぬるい空気を感じながら、俺は一人佇んでいた。
水泳部のヤツらはもう帰ったようだな。
俺が呼び出した、一人の人物を除いて。
その時──
ひたひた。
暗がりから響く足音。
小さな人影がこちらに歩いてきた。
コイツが、まほろばをイジめた犯人……!
これでようやく、まほろばの苦しみが終わるんだ!
スマホで彼女に合図を送り、俺は犯人をしっかりと見据える。
「どうして呼び出したかは分かるよな?」
するとそいつは、今朝と同じようにヘラヘラ答える。
「ナンパでしょ? もちろん分かってるっスよ」
青緑の髪を傾け、気だるげに立つ美良崎こがれ。
真っ白な学校指定の制服。水着の時とは印象が違うな。
あの時は腹を割って何でも話してくれそうな雰囲気だった。
けど、今は──
方眼紙のような柄のマスクが、彼女の表情を隠す。
何を考えてるかまるで読めね~。
過剰装飾なほどのフリルリボンも、どこか圧を感じさせる。
「お前、まほろばの親友なんだろ? どうしてあんなことを……」
俺の目には今でも焼き付いている、
昨日、目の前で涙をこぼしたアイツの姿が。
イジメられて、まほろばは死ぬほど悲しんだ。
なのに──
「誰の話っすか? 知らない人っスね」
美良崎は悪びれもせず、片手間にスマホをイジる。
「そういう話なら帰ってもいいスか? ちょっとよく分からないんで」
確かに、まほろばは【ゼッコーアプリ】で水泳部関係者を全員【ブロック】した。
【ブロック】された相手は、まほろばのことを五感全てで認識できない。
名前や記憶すらも、頭のどこか片隅で置き去りにされ、思い出すことは無い。
普通に考えれば、美良崎がまほろばを認識できないのも当然だ。けど、
違ェんだよな。
「青木ヶ里まほろばへのイジメ被害──美良崎、お前がその『犯人』なんだよ」
「だから、そんな人知らないって言ってるじゃないっスか!」
美良崎はスマホをしまい、俺を睨みつけた。
「朝、お前言ったよな? 『服着たままは危ない』って」
「それがどうしたんスか? 着衣水泳は危険。別に、おかしくなくないスか?」
「その時、隣の子は『プールサイドで走ったら危ない』って言ったよな? 普通なら、着衣水泳なんかよりも、そっちを注意するんじゃねェのか?」
「……ッ!」
美良崎は唇を噛み、こぶしを握る。
「そう、それがお前の、致命的な失敗だったんだよ」
俺は一歩踏み出し、美良崎の小さな肩を掴んだ。
「美良崎、お前はどうして、俺が服を着たままプールに入ると思ったんだ?」
「何となくっスよ。それ以上の理由なんて要らないっスよね」
美良崎は一瞬目を逸らす。
けど、すぐに視線を上げ、俺に悲しみを訴えた。
「ヒドイっスよ目狩センパイ。証拠も無しに、言葉のアヤだけで言いがかりなんて」
あくまでシラを切るか。
それもそうだよな。
ここで「まほろばを認識している」と認めれば、全てのロジックが逆転するから。
「いいや、違うね。お前は、溺れるまほろばが見えていた! だから、『着衣水泳は危険だ』と言ってしまったんだ!」
瞬間──
美良崎の斜め後ろから、黒い影が近づく。
そしてその影は、美良崎を目がけ何かを振り下ろした。
「……ッ!」
しかし、美良崎は身を大きくひるがえし、死角からの一撃をかわす。
俺たちの目の前に立っていたのは──
ビート板を持った、制服姿のまほろばだった。
「美良崎、お前言ってたよな? 『まほろばなんて知らない』って。なら、どうして今の攻撃を避けれたんだ?」
「それは……」
俯く美良崎。
その顔には、どこか焦燥が感じられる。
「影も足音も、【ブロック】されてれば認識できない。なのにどうしてお前は、まほろばの動きに対応できたんだ?」
けれど美良崎は、俺の言葉に何も反応を返さなかった。
「これで良かったんだよね?」
まほろばはビート板を抱きしめる。
信じれない出来事を前に、何かへすがるかのように。
「ああ、作戦通りだ。ありがとうな」
美良崎はまほろばを認識してる──
その仮説を証明するため、俺たちは作戦を立てていたんだ。
『俺が見えない誰かを掴んだら、頃合いを見てビート板を振り下ろせ』って。
これで、その証明もできた……!
「まさか予想できないよな。『先に美良崎から【ブロック】されてた』なんて」
まほろばは水泳部関係者を全て【ブロック】した。なのに、
イジメが続く。
だから水泳部関係者はイジメの主犯ではない。
これがまほろばの出した結論だった。
けど、
まほろばが先に【ブロック】されてたなら、全ては覆る。
「みぃくん、よく気付いたよね」
「ん、ああ……」
ま、この答えに辿り着くには、ちょっとズルがあったんだけどな。
俺はあの日の出来事を回想する。
まほろばが死んだ幻の世界──
あの時の保健室で、美良崎は確かにまほろばを認識してたんだ。
けど、まほろばは、美良崎のことを意に介してなかった。
それが全ての答えだったんだ。
「だからこそ今朝、俺はまほろばに溺れたフリを頼んだワケだ。美良崎に揺さぶりをかけるために」
ま、着衣水泳に関しては少し舐めてたケド。
「美良崎、お前は【ゼッコーアプリ】でまほろばを【ブロック】した。そして、相手から認識されない状態で、イジメを繰り返してたんだ」
「何を勝手に、話進めてるんスか!」
美良崎はマスクをずり下げ、感情のままに言葉を吐き捨てる。
「目狩センパイ、さっきあたしの肩ベタベタ触ってましたよね? 体を動かしたのは、それがキショかったからっスよ! あ~あ、カワイソウだから黙ってあげてたのに。センパイがバカな話するから、言わざるを得なくなっちゃったスねえ!」
そう来たか。
確かに、彼女の言い分はスゲー正しいんだよな。
まほろばの動きに対応できたのは偶然──
そう言われれば、俺の証明は破綻する。
「ひょっとして、全部センパイの妄想なんじゃないスか? あらら、カワイソ~! あたし、センパイの言ったこと全部分かんないスし、何なら学校のみんなにも聞いてみましょうか? センパイが妄想キショ男ってことで完全解答じゃないスかね?」
美良崎はバカにするような表情で俺に詰め寄る。
それは、勝利を確信した者の笑みだった。
だが、
俺は知ってんだよな。
それが全て彼女の虚勢だってさ。
美良崎は失笑まじりに俺の肩を小突く。
「結局、センパイは決定的な証拠なんて無いんスよ! なら、これ以上話してもムダっスよね? あたし、そろそろ帰りますね」
スマホを取り出し、彼女は俺に背を向けた。
クソ!
美良崎の動揺を誘えなきゃ、証拠を奪い取れない!
でも、このままじゃコイツを逃がしちまう!
何か案は無いのか?
その時、俺の脳裏に一つの違和感が過ぎる。
「美良崎、お前今、何て言った?」
「だから、そろそろ帰るって──」
「違う」
俺は去り行く彼女の手を掴み、こちらに向き直らせた。
「『センパイが話す女の子』って言ったよな? どうして女って思ったんだ?」
「別に? 消去法っスよ。まほろばなんて名前、男っぽくないって思っただけっス」
「いや、それはおかしいんだ。だって──」
俺はあの夜──まほろばを認識できなくなった時のことを思い出す。
「【ゼッコーアプリ】の影響を受けるのは五感だけじゃない。『名前』という情報もなんだ。なのにお前は、『まほろば』という名前を認識し、男っぽい名前じゃないと考えた。それ自体がウソの証明」
そして俺は、美良崎からスマホを取り上げ、
フォルダ内の【ゼッコーアプリ】からブロックリストを彼女に見せつけた。
「ここに表示された『青木ヶ里まほろば』の名前、それが何よりの証拠だ。お前がこのイジメの犯人なんだよ」
うなだれる美良崎。
もはや、反論する素振りすら見せない。
「でもお前、まほろの親友だったんだろ? それが、どうしてイジメなんて……」
「こっちのセリフっスよ」
美良崎は乱暴に、俺からスマホを奪い返した。
奪った俺の方が悪いみたいな態度で。
「あたしはまほろと約束した。なのに、アイツは裏切ったんだ!」
「裏切ったのは、まほろをイジメたお前の方だろ?」
「今年の四月、水泳部に入って、あたしはまほろばと仲良くなった。その時、『一緒にがんばろう』って約束したんだ。けど、そんなのウソだった」
「まほろばが大会のレギュラーに選ばれたことか? でも、それは別に約束とムジュンしないだろ? 一緒に練習は続けられるんだから」
「別に、まほろが選抜されて嫉妬したワケじゃない。むしろあたしは、そんなまほろを応援してた。あの日までは……」
美良崎はそこで言葉を区切り、目線をプールに落とす。
夕闇が混ざり合った水面は、まるで美良崎の心だ。
良い記憶も悪い記憶も、全部混ざり合って溢れんばかりに器を満たしている。
夏の生ぬるい風だけが、静かに表面を揺らす。
それは彼女にとって優しいものだろうか。それとも、
煩わしいものだろうか。
「あたしは、まほろに追いつこうと一人遅くまで練習してた。けどその日、見ちゃったんだ、まほろが顧問や部長たちと楽し気に話してるとこ」
「部長って、朝に見たあの気難しそうな女の子だよな?」
「そうっスよ。けど、まほろはそれ以降、何度も部長たちと帰った。今まで一緒に帰ってたのはあたしなのに。それで分かったんだ! まほろは自分がレギュラーになるため、部長たちに媚び売ってたんだって! 一緒にがんばろうって約束したのに!」
美良崎の言葉を聞いて、俺は胸が苦しくなった。
彼女の痛みは理解できる。
俺が同じ立場なら、気が気じゃなかったかもしれない。でも、
彼女に慰めの言葉はかけなかった。
だって、その役目は俺じゃないから。
「話を聞いて、こがれちゃん」
声を上げたのはまほろばだった。
美良崎の手を取り、顔を覗き込む。
「どうしてまほろが、あたしを認識して?」
「それはさっき、俺が【ブロック】の解除をしたからだよ。だって、直接話し合えた方が良いだろ? 仲直りするには、さ」
「……ッ!」
美良崎は何も語らず、視線の鋭さだけで抗議を訴えた。
「とにかく、あたしはまほろに裏切られた。だから、話を聞くまでも無いの」
「今さら説明しても遅いかもしれない。でもあれは、こがれちゃんのためだったの」
「あたしのため? あたしを仲間外れにして、部長たちと一緒に帰ったことが?」
「ううん、違うの。こがれちゃん、言ってたでしょ『まほろと一緒にレギュラーなれたらな』って。だから、先生たちに訊いたんだよ」
まほろばは涙を流しながら、美良崎を見つめる。
その瞳はひたすらに純粋で真っすぐで、俺にはまほろばが本当の天使に思えた。
「泳ぎのコツとか分かれば、こがれちゃんと一緒にレギュラーなれるから」
「そんなの、信じたくない」
「まほろの行動がこがれちゃんにイヤな思いさせちゃったのは事実。まほろも、全部をすぐには許せないかもしれない。でも、だからこそこれからは、もっと話し合うことにする。それで仲直りするのはダメかな?」
「今さらだよ」
美良崎はまほろの手を振り払い、飛び込み台の上に立つ。
「今さら、あたしの勘違いだって分かって、どうすればいいの? まほろの着替えを隠したり、更衣室に閉じ込めたりもした。そんなあたしが、仲直りなんてできるワケ無い。まほろの話を聞いて後悔するくらいなら、ずっと悪人のままが良かったよ」
刹那──
ゆらり。
彼女の影は揺れ、プールへ崩れ落ちる。
けど、
「別に、ここで結論付けなくていいんじゃねェか?」
俺は美良崎の腕を掴み、こちら側へたぐり寄せた。
すると彼女は力無いまま倒れ込み、俺の胸に抱き止められる。
「とりあえずさ、百年ぐらい保留しときゃいいんだよ。仲直りしてもしなくてもいい。一度謝って、あとはナアナアでいいんじゃないの?」
「はァ? 何言ってんスか、センパイ。あたしはまほろをイジメたんスよ? そんな簡単に済ませられるワケ無い」
「いいじゃねーか別に、簡単に済ましても。だって──」
美良崎とまほろばを交互に見つめ、俺は笑いかけた。
「お前らは親友なんだろ? これから何度も喧嘩したりすれ違ったりする。今日がその一回目だったってだけじゃねェの?」
「そうだよ」
まほろばは再び美良崎の手を取る。
「まほろ、また一緒に水泳がんばりたいな、こがれちゃんと」
「親友に戻れるかは分からない。でも、だからこそ、もう一つ約束させて。あたしは何があっても、まほろを信じる。それを仲直りの誓いにしたいな」
まほろと握り合う手に、美良崎は額を寄せる。
その顔はどこか救われたようで、俺も胸がすく気持ちになれた。
「これにて解決だな! ついでに削除しとこうぜ、【ゼッコーアプリ】」
「そうだね、みぃくん。でもまほろ、そういう操作ニガテだからさ、頼むね」
涙を拭いながら、俺にスマホを手渡すまほろば。
すると、
「じゃ、あたしもお願いしますね、センパイ」
同じように美良崎も手渡してきた。
「何なんだよ、お前らのその切り替えの早さ」
俺はため息をつきながら、二台のスマホを並行して操作する。
口のチャックを締める黒いアプリアイコン。
俺はそれを長押しして、「削除」ボタンを押した。
98%、99%……。
もう少しで処理も終わるな。
進歩バーを見つめながら、俺は思索にふける。
にしても、悪趣味なアイコンだよな。
ポップでカジュアルな雰囲気を出してる。けど、
そうやって現実の人間関係を【ブロック】した結果がこの事件だ。
【不条理存在】か……。
もう二度と関わりたくねェな。
削除処理の完了を見届け、俺は二人にスマホを返す──
寸前、
違和感に気付いた。
「【ゼッコーアプリ】が消えてない?」
それどころか、ホーム画面には同じアプリアイコンが二つ並んでいる。
何か間違えたか?
俺は同じ手順で、【ゼッコーアプリ】を改めて削除した。
なのに、
進歩バーは一ミリも動かない。
処理が重くなってる?
暑さでスマホの調子が悪いのか?
色々考えを巡らせていると──
ぴこん。
俺のポケットでスマホの通知音が鳴った。
でも、すぐ確認するほどでもないな。
俺にメッセージを送るのは大概まほろばだ。
そのまほろばも今、俺の目の前で美良崎と仲良くやってる。
だから別に通知なんて──
ぴこん。
再び響く通知音。
それは一度なんてものじゃない。
何度も何度も何度も何度も、
スマホが壊れたかと思うほど、何かの通知がポケットを震わせた。
何かの冗談、だよな?
二人にスマホを返し、俺はポケットに震える指を伸ばす。
取り出したスマホには、
おびただしいほどの着信履歴が並んでいた。
相手の番号は非通知で、誰がかけたかは分からない。
そして、通知画面に表示された「1件の留守番電話」。
俺はその時、気付いた。
これは解決なんかじゃなかった。
始まりだったんだ。
俺は、【不条理存在】から【観測】されてしまった。
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