第1話その2 母親と世界樹

はるか頭上の空を渡る世界樹の葉が、夕日の影響を受けて鮮やかな茜色に染まっていた。その茜色は地上に降り注ぎ、葉の影の部分が赤色になりながらアスファルトを照らしていた。まさに天然のレッドカーペット、もしくは葉の落ちていない紅葉道のようだと、この現象を初めて見た啓樹はそんな感想を抱いた。

「お姉ちゃん、なんでセカイジュの葉っぱの影はあかいの?」

「時間帯、というか太陽の色調に呼応するんだよ。」

「こおう?」

「そう、こおう。おひさまと同じような色になるのが世界樹の葉っぱなんだよ」

「へー!すごい!お姉ちゃん物知り!」

「まあね~。なんてったって世界樹の精霊ですから」

ことあるごとに世界樹の精霊であることを強調してくる誤召喚の張本人とあおとともに、啓樹は学校から帰る際通り道にしている商店街に来ていた。

あまり人が多い所にあおを連れていくのは気が引けたが、あおだって地元の人間なのだ。母親と連れ立って何度も商店街には足を運んでいるだろう。

俺も何度も来ている。少し高い所にある母親の手をしっかり握っていることに精一杯になって、周りが見えていなかったことをふと思い出した。

「あお、君のおうちはクリーニング屋だろ?」

ぷかぷか浮いたままのあおは少し訝し気にうなずく。

「どうしてわかったの?」

「俺、君んちのクリーニング屋に何度もお世話になっているんだ」

「え、そうなの?!」

「ああ、幼いころだけどな」

3人は並んで歩く(一人は浮いているけど)。そしてとある店の前にたどり着いた啓樹は、足を止めて店の看板を見上げた。

古びたトタンの看板に塗られたペンキが剥げている。しかしそこには、しっかりと『布織クリーニング』の文字が見て取れた。

「ここが、あおくんのおうちの人がやってるクリーニング屋なの?」

ミナナの問いかけに、あおはうなずく。やはり、正解だった。

でも、あおの表情が何やら浮かないようだ。母親とはぐれてしまったことによる不安、それだけが原因ではないように啓樹には思えた。

ミナナに言ってあおの浮遊を解かせた。地面に降り立ったと同時に、あおは啓樹の服の袖をぎゅっと握ってくる。わずかに、腕が震えていた。

「...あお?」

ざっざっざ、と、足音が聞こえてくる。

「おや、あおくんじゃないかい」

布織クリーニングから出てきた足音の正体は、背中の曲がったおばあさんだった。

「どうも、ご無沙汰してます」

啓樹は深くお辞儀をした。袖を握るあおの力が少し弱まったのを感じながら。

啓樹を見つけた途端、おばあさんの表情は驚きの色が混じる。

「...君は、内海さんとこの啓樹くんかい?」

「はい、昔はお世話になりました」

おばあさん...おそらくあおの祖母である布織幸代は柔和に微笑んで、3人を店の中に入れた。


夕暮れが店の出入り口の扉から少しずつ店の中を夕に染めてゆく。そんな中二人と幸代さんはゆっくりと麦茶を飲んでいた。あおは、冷蔵庫にあるオレンジジュースをちびちびとすするように飲んでた。僕はいらないと半ば駄々をこねるように主張したあおに、半ば無理やり進める形で差し出したオレンジジュース。

「...なんでミナナのほうが飲みたがってるんだよ」

あきれ顔で啓樹がそういうと、恥じらいも何もなくミナナは言った。

「私の世界にはオレンジなんて言う果物はなかったんだよ?ただでさえ食べたことない果物を、液体にして飲めるものがあるだなんて!」

この世界は未知にあふれていて素晴らしい、と恍惚気にそういったミナナの前に、ことんとオレンジジュースが差し出された。

「...え」

ぽかんとするミナナ。

「いくらでもお飲みなさいな」

差し出した張本人である幸代さんはやわらかい笑顔を崩さずにこういった。

瞬間、ミナナの瞳は今までにないほど輝きを帯びた。

「...ありがとうございます!」


「そっか、ミナナはアンノーンジュースしか飲んだことがないのか」

「そんなことないわ!あと、アンノーンじゃなくてヒポライカね」

満足そうにオレンジジュースを飲みながら、ミナナは説明する。

「果物はいくつもあるけど、ニホンにあるようなものはないんだよ。似てるのはあるけどね」

その中の代表的な果実の一つが、アンノーン(原産地である向こう側の世界ではヒポライカと呼ぶらしい)というわけだ。この街の住民限定でだが、安価に購入出来て美味な果物として地元住民の間でかなり浸透してきている。

下校途中に出会った人物は、家のベランダに落ちてきたアンノーンを拾ってきては売りさばいている人物だった。

「...して、私の娘がどこかにいなくなってしまったと...」

幸代さんはあおの母親、そして自分の娘の行方に思いを巡らせていた。

「あおくんがなにやら母親と口論してしまったようで、それで怒ってその場を離れてしまったことで母親とはぐれてしまったそうで...」

しかしここは母親と幸代さんが営んでいるクリーニング屋。家なのだ。啓樹はそれを踏まえて幸代さんに一つ提案した。

「幸代さん、あおくんのお母さんに電話をしていただけないでしょうか?あおくんがクリーニング屋にいることが分かれば、すぐに迎えに来ると思うのですが」

幸代さんは氷が解けて水滴のついたコップをテーブルにおいたあと、ちらりとあおのことを見た後言った。

「いえ、それはまだしないわ。」

「なぜ...」

幸代さんは居間の奥、和室の隅っこにある仏壇に目をやった。つられて目線の先を見る啓樹とミナナ。ミナナは小声で「あれ、なに?」と聞く。

答えようと口を開く前に、幸代さんが説明した。

「あれはお仏壇といって、亡くなった人を供養するための場所よ」

「供養...」

啓樹は目を凝らしても仏壇の上の遺影を視認することはできなかった。しかし、その写真の主は大人の男性であるように見て取れた。

「娘は、必ずここに来るわ」

今度の声は、力強い声だった。必ず、その言葉の重みをきちんと理解して、それでもなおその言葉を用いるほどの絶対の自信のように啓樹は思えた。

すると、突然すすり泣く声が聞こえてきた。慌ててあおのほうに駆け寄る。大粒の涙を流して、あおは泣いていた。

「僕のせいで、お母さんは...」

ハンカチをあおの目元にやりながら、啓樹は努めて穏やかに諭した。

「大丈夫だよ。絶対戻ってくるよ、すぐにでも来てくれるさ」

「そうじゃないもん」

あおの涙は次第に勢いを増していく。

「僕のせいで、お母さんはひとりになったんだ...」

「だとしても、もうじき迎えに来てくれるよ」

あおは言った。

「僕のせいで、お母さんは一人になったんだ。お父さんも天国にいっちゃったんだ!」

その言葉を脳が処理した瞬間、啓樹の脳裏には先ほどの遺影が浮かんでいた。

そして間髪入れずに、啓樹はあおを抱きしめた。あおは泣きじゃくる。

「ひとりは悲しいから、僕がお母さんを見つけなきゃいけないのに...見つけるまで、おうちになんて帰っちゃダメなのに...」

「見つけようとしなくていいんだ。待っていればいいんだ」

泣き濡らすあおのほほをぬぐいながら、啓樹は続ける。

「ひとりが悲しいから、ひとはつながっていくんだ。すぐにお互いを見つけられるように、人それぞれ見た目が違っていくんだ。だからあおがお母さんのことを大事に思っているんなら、その気持ちが自ずとお母さんを見つけ出す。...それは、君のお父さんだって同じだ。離れた場所でも、ちゃんとつながっているんだ。だから、あおはつながっている人を信じて待っていればいいんだよ」

気づけばミナナもそばに寄っていた。今までに見たことがないほど、優しい表情をしていた。

「私も、向こうの世界で同じ気持ちを味わったことがある。だからこそいえる。お母さんはきみのせいでひとりになったんじゃないよ」

ミナナは言った。

「だから、顔を上げてごらん」


そこには、息を切らしながら店の中に入ってきた、あおの母親の姿があった。


「あお...!」

「お....かあさん...」

ゆっくりとあおの元を離れた啓樹とミナナ。すぐに、あおの母親があおを抱きしめた。

「ごめん...ごめんねあお....さみしい思いさせてごめんね...!」

あおは、ずっと泣いていた。長い時間をかけてあおは泣き止み、布織クリーニングには静かな平穏が訪れた。空はすでに星をつなげ、世界樹はそれに呼応するようにほんのうっすらと、ホタルの光のようなぼやけたあかりをともしていた。


「本当に、感謝してもしきれません。なんとお礼をすればよいか...」

あおのお母さん、佳奈さんはひたすら啓樹たちに頭を下げていた。

「いえいえ、俺たちは何もしてないですよ。あおくんの気持ちが三奈さんにあわせたんです」

「そうそう!世界樹の精霊として、これくらい当然です!」

「俺は精霊じゃねえよ」

あおがはしゃぐ。

「お姉ちゃんね、イセカイのセーレーなんだって!僕、お姉ちゃんの魔法でぷかぷか浮いたんだよ!佳奈さんは笑顔で答える。

「えー、そうなの!お姉ちゃんすごいねえ!」

「えへへ...」

「照れるなよ」

調子づいたミナナはもう一度魔法を使おうとするが、そこには疲れ切っていたのか、すやすやと眠るあおの姿があった。

「まったくもう」

あきれたように言う佳奈さんの頬は、緩み切っていた。


「まだあおが生まれて間もないころ、夫が交通事故で亡くなったんです」

眠ってしまったあおを和室で寝かせて、佳奈さんの話に啓樹、ミナナ、そして幸代さんは耳を傾けた。

「それ以来、ひとりで子供を育てなければいけなくなったことでクリーニング屋の仕事に時間を取られることが多くなりあおにはたくさんさみしい思いをさせてきました。」

商店街の夜に、音はない。

「そして今日、あおの学芸発表会の日、別の仕事が入っていけなくなったことを伝えると、あおは何も言わずに走りだしてしまって...」

「それで、離れ離れになってしまったんですね」

「ええ。家に帰ったのだろうと思い私も家に帰ると、そこにはあおはいなかったので...」

一息置いて、佳奈さんは続けた。

「わたしはあおが何より大切です。あおが望むものは何でもしてあげたかった。それなのに、私はあおが何を望んでいるかうっすらと気づいていながらあおの優しさに甘えていたんです」

あまりにも、真摯な思いのこもった言葉だった。啓樹は思わず立ち上がった。

「佳奈さん。その、俺なんかがこんなこと言うのも失礼だと思うんですけど...」

しばし逡巡したのち、啓樹はずっと思っていたことを言った。

「今まで、ほんとうにお疲れ様です。あなたはきっと、あおくんにとってどの世界にもほかにいないほど、最高の母親ですよ」

佳奈さんは、何かを言おうとしたのか口を開けたが、本人も意図しない涙を流していた。

「あ、あれ...?」

すぐに後ろを向いて涙をぬぐった佳奈さんは、しばらくしてこっちを向きなおした。

「す、すみません.....息子を助けていただいた上に、こんなところまでお見せしてしまって」

その涙は、看板の色を息子の名前と同じあおいろに塗り替えるほどすべてを捧げる覚悟をした人間が流す、尊い涙であるように啓樹には感じられた。


夜も遅くなったので佳奈さんはねぼけまなこのあおを連れて家に帰り、残されたのは啓樹とミナナ、そしてもともとここに住んでいる幸代さんのみとなった。

さて、そろそろ啓樹くんとミナナちゃんも帰りなさい。と幸代さんは言った。

立ち去る直前、啓樹は言おうともしなかったことがふとこぼれた。

「おれ、母親とまたつながりなおせますかね」

そんな言葉が自分の口から発せられたことに驚きを隠せない啓樹。

...俺、もうとっくにあきらめたはずなのに...

発言を訂正しようと慌てて言葉を発しようとする啓樹に幸代さんは笑いかけた。

「見つけようとしなくていい。待っていればいい。...啓樹君の言葉よ」

その笑顔は、佳奈さんがあおに見せた笑顔とそっくりだった。


街の夜は更けていく。そのすべてを、世界樹が空から包み込んでいるような気がした。





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