第15話:三つの軸、光速の夢、無限の壁
魔術師ゼファルの脅威は、三人の研究に新たな方向性を与えた。
それは、単なる防御や迎撃ではなく、彼らの技術体系を遥かに凌駕する、究極の移動手段の確立。
すなわち、かつてダイスケが夢物語として語った、『三軸合力推進(GEEドライブ)』の実現だった。
「ゼファルから逃げるためか? それは我々のやり方ではないな」
ダイスケは、研究室の中央にGEEドライブの概念図を描きながら、首を振った。
「これは、逃走ではない、超越だ! 彼がチマチマと空間を歪ませている間に、我々は空間そのものを置き去りにして、光の彼方へと到達するのだ!」
GEEドライブ。
それは、三つの亜光速推進装置(反重力ピンセットの応用発展形)を、X、Y、Zの三軸にそれぞれ配置し、その推力の合成ベクトルを利用して、物理的な限界である光速を超えるという、ダイスケの脳内宇宙が生み出した、途方もないアイデアだった。
「相対性理論を完全に無視した、いつもの妄想ですわね」
レイカは、腕を組んで冷ややかに言う。
「光速に近づくほど、物体の質量は無限大に増大するわ。無限の質量を動かすには、無限のエネルギーが必要よ。あなたの夢想ドライブは、起動した瞬間にブラックホールになって、我々ごと飲み込んでお終いだわ」
「その通り! そこが鍵なのだ、レイカくん!」
ダイスケは、レイカの否定を待っていたかのように、ニヤリと笑った。
「質量が無限大になるということは、だ! 時空に対して、絶対的な『足がかり』ができるということなのだ! 空間に固定されたアンカーポイントになる! 旧GEEドライブは、この無限の質量を『足場』にして、閉鎖空間内で宇宙船を推進させようという試みだった!」
「…まるで、自分の靴紐を引っ張って空を飛ぼうとするようなものですわね。パラドックスだわ」
「いかにも! だが、新GEEドライブは違う! 我々は、強力な反重力エリアを展開することで、質量が無限大になるという『呪い』から、船員だけを切り離す! 船体は時空のアンカーとなるが、我々はその中で守られる。そして、三つの軸が生み出す合成ベクトルが、船を光速の壁の向こう側へと『押し出す』のだ!」
ダイスケの語る理論は、物理学の常識を根底から覆す、まさにSFの領域だった。
しかし、その瞳には、確固たる信念の光が宿っていた。
彼の熱意に押され、レイカは半信半疑のまま、その理論のシミュレーションを開始した。
アキラは、三つの推進装置の精密なエネルギー同調を可能にする、新たな制御システムの設計に取り掛かった。
数週間後、レイカのスーパーコンピュータが、驚くべき計算結果を弾き出した。
「…信じられない…理論上は、可能よ」
レイカは、震える声で言った。
「三つの推進装置が、それぞれ光速の90%の速度に達した時、その合成ベクトルは、確かに光速の約1.7倍(√3倍)に達する…。ただし、その瞬間、船首方向の空間は、三角錐状に引き裂かれ、凄まじい重力波の衝撃波が発生するわ」
スクリーンには、空間が引き裂かれ、眩い光の円錐(チェレンコフ光に似た未知の光)を放ちながら突き進む、宇宙船のシミュレーション映像が映し出されていた。
その光景は、美しく、同時に恐ろしかった。
「おお! これぞ、我が夢見た光景だ!」
ダイスケは、子供のようにはしゃいだ。
しかし、レイカは深刻な顔で続ける。
「問題は、乗員の保護よ。反重力エリアの展開が、コンマ1ナノ秒でも遅れれば、乗員は無限の質量に圧縮され、素粒子レベルで圧潰する。このドライブは、人類史上、最も危険な乗り物になるわ」
光速の夢は、死と隣り合わせの悪夢でもあった。
成功と失敗の間には、剃刀の刃ほどの隙間もない。
その夜、アキラは一人、制御システムの設計図と睨めっこしていた。
ダイスケとレイカが帰った後も、研究室に残り、作業を続けていたのだ。
彼女の『身体感覚』が、設計図に潜む、わずかな、しかし致命的なエネルギーの非対称性を感じ取っていた。
(このままじゃ、ダメだ…起動した瞬間、三つの力のバランスが崩れて、自爆しちゃう…)
彼女が頭を抱えていると、ふと、背後に人の気配を感じた。
振り返ると、そこに立っていたのは、帰ったはずのレイカだった。
「…忘れ物をしただけよ」
レイカはぶっきらぼうに言ったが、その目はアキラの設計図に注がれていた。
「あなたも、気づいていたのね。このままでは、三つの軸が完璧に同調しないことに」
レイカもまた、自分の計算結果に潜む、理論上の「揺らぎ」に気づき、研究室に戻ってきたのだ。
二人は、それ以上言葉を交わすことなく、自然と隣に座り、一つの設計図を覗き込んだ。
一人は、論理と数式で、宇宙の法則を読み解く天才。
もう一人は、感覚と経験で、物理的な世界の歪みを感じ取る天才。
普段は反発しあう二人が、その時だけは、互いの足りない部分を補い合うように、設計図の修正に没頭した。
レイカが数式で導き出した最適解を、アキラが感覚で微調整し、形にしていく。
「…ここのエネルギー伝達経路、あなたの言う通り、わずかに湾曲させた方が、流れがスムーズになるわね…」
「レイカさんの計算があったから、どこを直せばいいか、すぐに分かりました…」
奇妙な三角関係の二つの頂点が、初めて、ダイスケという存在を介さずに、固く結びついた瞬間だった。
彼女たちの間には、もはや恋のライバルという意識はなく、ただ、一つの目標に向かう「仲間」としての、静かで、しかし強い絆が芽生え始めていた。
そして、その光景を、研究室の隅の暗がりから、一体の「影」が、静かに見つめていることを、二人はまだ知らなかった。
ゼファルの企みは、彼らの知らないところで、着々と進行していたのだ。
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