第2話:恋の方程式は、非ユークリッド幾何学
数日後、宇宙大輔の研究室は新たな生態系を形成していた。
ダイスケが築き上げた混沌の帝国に、Dr.レイカが持ち込んだ最新鋭の解析機材が整然と配置され、まるで古代遺跡に最新鋭の基地が建設されたかのような、奇妙なコントラストを生み出している。
研究室の主であるはずのダイスケは、今やその一部をレイカに占拠され、ホワイトボードの前で激しい論戦を繰り広げるのが日課となっていた。
「だから、あなたの言う『電子のダブルトーラス構造』という仮説は面白いわ。確かに、そう考えれば強力な負電荷を持つ電子同士が、なぜ特定の条件下で密集できるのか説明がつく。でも、そのエネルギー収支の計算式が美しくない!」
レイカは、PCの画面に表示された複雑な数式とシミュレーション結果を指し示す。
彼女は万物をデータと数式で理解しようとする、典型的な「視覚優位(Vタイプ)」の思考の持ち主だった。
グラフや図、そして何より「美しい」数式を信奉していた。
対するダイスケは、頭をガシガシとかきながら反論する。
「美しいかどうかではない、宇宙がそう『歌って』いるのだ! この理論は私の頭の中で完璧なハーモニーを奏でている!」
彼は、言葉の響きや理論の整合性を音のように捉える「聴覚優位(Aタイプ)」の人間だった。
そのため、二人の議論は絶妙に噛み合わない。それはまるで、数学者と音楽家が同じ曲について語り合っているかのようだった。
「具体的に図で示してください、博士。あなたの頭の中のハーモニーとやらを」
「うむ!」
ダイスケは自信満々にペンを握ると、ホワイトボードに二つの歪んだドーナツが絡み合う、前衛芸術のような図を描いた。
レイカはこめかみを押さえた。
「それは…トーラスですらありませんわ。ただの醜い落書きよ」
そんな二人を横目に、アキラは黙々と実験器具を磨いていた。
レイカが来てから、ダイスケは水を得た魚のように生き生きとしていたが、その分、自分に目を向ける時間は確実に減っていた。
二人の交わす高度な専門用語は、アキラにとっては異星の言語のように聞こえる。
(科学の話になると、まるで別世界の住人みたいだな…)
寂しさを感じながらも、アキラは彼らの議論に耳を傾ける。
そして、二人とは違う感覚で研究室の「空気」を感じ取っていた。
Nマシンが発する微かな振動の変化、室温の局所的な揺らぎ、ダイスケの言葉が熱を帯びた時の声のトーン。
それは、彼女の「身体感覚(Kタイプ)」が捉える、データにも理論にも現れない情報だった。
「いいか、レイカくん! この反重力を完全に制御できれば、ボイド空間に大量に存在する反物質を、マイクロブラックホールを使って貯蔵することだって夢ではない!」
ダイスケが身振り手振りを交えて熱弁を振るう。
レイカは腕を組んで、やれやれと首を振った。
「その壮大な夢物語を実現する前に、まずは目の前の現象を一つでも証明なさったらどうです? あなたの理論はいつも飛躍しすぎよ」
しかし、その声には呆れだけでなく、彼の純粋な情熱に対する、かすかな好意が滲んでいるのをアキラは見逃さなかった。
レイカはダイスケの突拍子もない発想に悪態をつきながらも、その奥にある天才的なひらめきに、間違いなく惹かれ始めていた。
その日の午後、改良を加えたNマシンの実験が行われた。今回の目標は、前回の「膨張・破壊」ではなく、より弱い反重力による「透過」現象の安定化だ。
「出力、徐々に上げていくぞ!」
ダイスケの号令で、装置が青白い光を放ち始める。
実験台の上には、ダイスケが愛用している「理論物理学はロックだ!」と書かれたマグカップが置かれていた。
すると、マグカップが陽炎のように揺らめき始めた。
そして、スッと音もなく、まるで幽霊のように実験台をすり抜け、床にゴトンと落ちた。
「成功だ! 透過したぞ!」
ダイスケが歓声を上げる。
「成功ですって? あなたの大事なカップが床に落ちたのよ! しかも見て、床にもわずかに分子レベルの融合痕があるわ。これでは安定制御とは言えない!」
レイカが鋭く指摘する。
まさにその時だった。Nマシンが発する音が、甲高い不協和音に変わった。
「まずい! エネルギーが逆流している!」
レイカが即座に状況を分析し、PCのキーを叩きながら叫ぶ。
「博士、緊急停止プロトコルDを発動して! 理論上、それが最も安全な停止方法よ!」
だが、ダイスケは装置の異音を聞き、直感で別の可能性を感じていた。
「いや、それでは間に合わん! こちらのエネルギーバイパスを開放する!」
「無茶よ! 理論的裏付けがないわ! 暴走する!」
二人の意見が激しく衝突し、研究室の空気が張り詰めた、その瞬間。
「先生、そっちじゃない! その隣の、補助冷却システムの流量調整ダイヤル! 時計回りに、ほんの2ミリだけ!」
アキラが、悲鳴に近い声で叫んだ。
彼女には分かった。理論でも直感でもない。
Nマシン全体が発する悲鳴のような「振動」が、肌を粟立たせる。
このままでは、危険な共振が起きて研究室ごと原子分解してしまう。
それを防ぐ唯一の方法が、経験則で知っているあのダイヤルの微調整だと、彼女の全身が告げていた。
一瞬の沈黙。ダイスケはレイカとアキラの顔を見比べ、次の瞬間、迷いなくアキラの言葉を信じた。
彼がダイヤルを回すと、装置を包んでいた危険な光と不協和音は、まるで嘘のようにスッと収まり、静寂が戻った。
「アキラくん! すごいぞ、君は! なぜわかったんだ!」
ダイスケは目を丸くしてアキラに駆け寄った。
「え、えっと、なんとなく、機械がそうしてくれって言ってるような気がして……」
レイカは、自分の完璧な理論と計算が及ばなかった現実を前に、呆然と立ち尽くしていた。
そして、悔しさと、理解できない現象への知的好奇心が入り混じった複雑な表情で、顔を赤らめるアキラを見つめた。
宇宙の真理を探る三角関係は、理論と直感だけでは解けない、新たな座標軸「感覚」の存在によって、より複雑で、より予測不能な軌道を描き始めたのであった。
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