通勤電車発!Gラブ・トライアングル
宇宙大輔
第1話:重力と恋の始まりは、いつも突然に
「フッフッフ……見つけたぞ、アキラくん! 重力の正体は、やはり宇宙の加速膨張だったのだ!」
薄暗い研究室で、白衣の裾を翻しながら、宇宙大輔(うちゅう だいすけ)は興奮気味に叫んだ。
彼の周りには、およそ三日は洗っていないであろうコーヒーカップの山、用途不明の電子部品、そして人類の叡智とドーナツの染みが同居するホワイトボードが、混沌の銀河系を形成している。
彼の助手を務めるアキラは、床に散らばった半田ごてを拾い上げながら、呆れたような、しかしどこか愛情のこもった眼差しでその奇矯な天才を見つめた。
「はいはい、ダイスケ先生。それはもう、先生のライフワーク『宇宙徒然草』の第一話でさんざん語られてますよ」
「だが、これは確信だ! アインシュタインの思考実験、『重力と加速度は区別できない』というならば、それは即ち『重力=加速度』ということではないか! そして宇宙全体に存在する加速度こそ、ハッブルが観測した宇宙の加速膨張なのだ!」
「それより先生、先月の備品代の請求書、経理の鬼姫様が『最終通告』だって突き返してきましたけど。先生の理論で、この請求書を時空の彼方へ消し去ることはできませんかね?」
「むぅ、俗世の重力はあまりに厄介だな……」
ダイスケは頭を掻いた。彼の壮大な理論によれば、重力とは、空間の加速膨張によって原子核の周りを回る電子の軌道が外側にズレるのを、内側へ引き戻そうとする力に他ならない。
しかし、その理論は今のところ、月末の支払いを1ミリもズラしてはくれなかった。
「それより、あの『ハチソン効果』の再現実験、また失敗ですよ。今度は、大事なビーカーが空中浮遊するどころか、床にめり込んじゃいました……」
アキラが指さす先には、見るも無残に床と一体化したガラスの残骸があった。
「うむ、ハチソン氏の実験はテスラコイルとバンデグラフ発電機による超高電圧放電だったからな。我々の『Nマシン』による低電圧・大電流方式では、まだ電子の動きを制御しきれていない。だが、制御さえできれば、真の反重力が発現するはずだ!」
ダイスケが語る「反重力」とは、世間一般にイメージされる「モノが軽くなる」という生易しいものではない。
それは「減速縮退」の力であり、物質を原子レベルで膨張させ、うまく使えば壁を透けたり、究極的には原子分解さえ可能にするという、神をも恐れぬ途方もない現象なのだ。
アキラは彼の話の九割九分を理解していなかったが、その瞳に宿る狂気じみた情熱だけは、本物だと信じていた。
その晩も、実験は深夜にまで及んだ。ダイスケが「これぞ我が叡智の結晶!」と豪語する「試作型Nマシン」のスイッチを入れると、いつもはただのうなり音と振動で終わる装置から、美しい青白い光が放たれた。
次の瞬間、研究室の隅にあったコーヒーカップが、ふわりと宙に浮き上がったかと思えば、カップの向こうの景色が、陽炎のようにゆらりと透けて見えたのだ。
「おぉ! 見よ、アキラくん! これぞまさしくハチソン効果! 物質の原子間隔が広がったのだ! 私の唱える『電子のダブルトーラス構造』仮説が、また一つ証明されてしまった!」
ダイスケが狂喜乱舞する。電子が単純な球体ではなく、二つのドーナツが重なったような「ダブルトーラス構造」をしているからこそ、反重力によってその結合が緩み、こんな不思議な現象が起きるのだ、と彼は信じていた。
しかし、喜びも束の間。浮遊していたカップが突然、元の倍ほどの大きさに膨張し、次の瞬間には、「パリン!」という乾いた音を立てて粉々に砕け散った。
「キャアァァァ! またですか、先生! 今月の備品代、どうするんですか!」
アキラの悲鳴が研究室に響き渡った、その時だった。
スッとドアが開き、一台の洗練されたデザインのドローンが滑るように入室してきた。
ドローンから、氷のように冷たく、しかし鈴が鳴るような凛とした声が響く。
「宇宙大輔博士ですね。何やら奇妙な噂を嗅ぎつけてみれば、これほどの惨状とは。やはり、あなたのような素人考えで、神聖な科学の領域に足を踏み入れるべきではなかったようですわね」
声の主は、国内でも屈指の理論物理学者、麗しきDr.レイカだった。
非の打ち所のないスーツに身を包み、常に完璧な彼女は、ダイスケの「宇宙徒然草」を「通勤電車の中で生まれた、科学の皮をかぶった妄想」と一笑に付している人物である。
「な、Dr.レイカ! なぜここに? これは失敗ではない、実験の成功だ! ほんの少し、ほんの僅かに出力制御に難があっただけで……!」
ダイスケは途端にシュンと小さくなる。
彼の得意げな顔は、美しい捕食者の前に現れた哀れな子羊のように萎んでしまった。
レイカは、床に散らばるカップの残骸と、めり込んだビーカーの跡を、まるで芸術品でも鑑定するかのように冷徹な視線で観察した。
「成功? 物質を無秩序に破壊する現象のどこがですの? 私はもっと厳密で、再現可能な科学的検証を重んじます。あなたの研究は、サイエンスフィクションの域を出ていないわ」
その言葉は、鋭利な氷の刃のようにダイスケの自尊心を突き刺した。
「麗華さん、そんな言い方って……!」
アキラが思わず二人の間に割って入る。
彼女は密かにダイスケに想いを寄せており、彼が他の誰かに侮辱されるのが許せなかったのだ。
レイカはアキラを一瞥し、フン、と完璧な形の鼻を鳴らした。
「感情論で科学は語れませんわ、助手さん。しかし……」
そこで彼女の言葉が途切れた。
レイカの目が、粉々になったカップの破片の一点に釘付けになる。
その表面が、ありえないほど滑らかに、まるで溶断されたかのように切れている。
そして、床にめり込んだビーカーの周囲の分子結合が、異常な形で弛緩していることを、彼女の天才的な頭脳は見抜いていた。
「……この原子間結合の弛緩と、局所的な重力変動。確かに、奇妙ではあるわね。データの提供をお願いできますこと?」
その態度の変化に、ダイスケは一瞬で立ち直り、目を爛々と輝かせた。
「おぉ、興味を持たれたか! これこそが、宇宙を司る究極の力! 将来は『防御シールド』や、光速を超える『三軸合力推進(GEEドライブ)』にも繋がる、偉大なる第一歩なのだ!」
レイカは、そのあまりの熱量に一歩後ずさりながら、ほんのりと頬を赤らめた。
「何をそんなに興奮なさっているんですの。まだ現象解明の緒に就いたばかりでしょう。あなたの頭の中は、いつも飛躍しすぎですのよ。……だけど、その飛躍、嫌いではないわ」
最後の言葉はあまりに小さく、ダイスケの耳には届かなかった。
アキラは、専門的な用語で目を輝かせながら議論を始めた二人を見て、胸がチクリと痛むのを感じていた。
ダイスケが、自分以外の女性の言葉に、あんなにも一喜一憂する姿を見たのは初めてだったからだ。
自分こそが、彼の夢を一番近くで支えてきたという自負があった。
しかし、この圧倒的な知性の奔流の前では、自分の存在がただの「助手」でしかないことを、痛感させられていた。
こうして、一人の変人天才科学者と、二人の女性による、奇妙で、コミカルで、そしてちょっぴり切ない研究の日々が、宇宙の真理と恋の謎を探るトライアングルとなって、今、幕を開けたのであった。
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