第3話:あなたの小脳(ハードディスク)を見せて

前回の暴走事件以来、宇宙大輔の研究室には、Nマシンが発する微弱な反重力場よりも奇妙な力場が形成されていた。


それは、Dr.レイカからアキラに向けられる、鋭く、そして探るような視線だった。




「アキラさん、昨晩の睡眠時間は? 夢は見ました? 見たとしたら、それはカラーでしたか、それとも白黒?」


「えっと、7時間くらいで…夢は見てない、かな…?」




朝からレイカの尋問まがいの質問に、アキラはタジタジだった。


レイカはアキラの「身体感覚(Kタイプ)」の能力を科学的に解明しようと、彼女の行動、体調、食事メニューに至るまで、こと細かくノートに記録し始めたのだ。


それは純粋な科学的探究心からくる行動だったが、観察される側のアキラにとっては、生きた心地がしなかった。




「ふむ、被験体Kは外部からの刺激に対し、論理的思考を介さず、経験則に基づく身体的反応を優先する傾向が強い…まるで、高度に訓練された動物のようね」


「あの、レイカさん、私を一応、人間として扱っていただけると…」



アキラが抗議の声を上げようとした、その時。



「二人とも、聞きたまえ! 世紀の大発見だ!」



ダイスケが、ホワイトボードの前に仁王立ちして叫んだ。

そこには、人間の脳の断面図らしきものと、またしても彼の独特なセンスが光る不可解な図形が描きなぐられていた。


二人の女性の間の微妙な空気に気づく気配は、彼には微塵もない。



「反重力は物質の原子間力を弛緩させ、透過や膨張を引き起こす。ならば、だ! この力が、物質の究極の形である『情報』、すなわち人間の『記憶』に作用しないと、誰が言い切れようか!」



ダイスケは高らかに宣言した。

レイカとアキラは、顔を見合わせる。

またいつもの壮大な妄想が始まった、という表情だ。



「次の我々のターゲットは、『小脳』だ!」



ダイスケは、脳の図の小脳の部分を、ペンで力強く囲んだ。



「私の『宇宙徒然草』第十五話でも述べたが、小脳は大脳の外付けハードディスクに他ならない! 赤ん坊が生まれながらに笑ったり泣いたりできるのはなぜか? それは、小脳に遺伝子レベルで書き込まれたシーケンス制御プログラムが作動しているからなのだ!」


「博士、それはあなたの独自仮説で、学会では全く認められていませんわ」



と、レイカが冷静にツッコミを入れる。



「常識に囚われる者に、新たな宇宙の扉は開けんよ、レイカくん!」



ダイスケは全く意に介さず、計画を続けた。



「このNマシンを改良し、微弱な反重力パルスを人間の小脳に照射する! そうすれば、普段はアクセスできない深層記憶、あるいは先祖から受け継がれた『遺伝的記憶』さえも引き出せるやもしれん!」



研究室に、一瞬の沈黙が落ちた。


レイカが、こめかみを押さえながら口を開く。



「…博士、それは科学ではなく、オカルトです。倫理的にも問題がありすぎるし、何より危険すぎるわ」



アキラも、恐る恐る口を挟んだ。



「せ、先生…それって、要するに、記憶をいじるってことですよね? 下手したら、廃人になっちゃいませんか…?」



「心配ない!」ダイスケは胸を叩いた。


「もちろん、被験者は私自身だ! 私の小脳は、宇宙の真理で満ち満ちている! 何が出てくるか、楽しみで仕方ないだろう?」





こうして、二人の必死の制止も虚しく、その日の午後には、ダイスケの頭に奇妙なヘルメット型の「小脳直結型Nマシン」が装着されることになった。


無数のケーブルがヘルメットから伸び、装置に接続されている。

その光景は、マッドサイエンティストという言葉を具現化したかのようだった。



「準備はいいかね、二人とも! 歴史的瞬間の目撃者となるのだ!」



ダイスケがヘルメットの中からくぐもった声で言う。

レイカとアキラは、青い顔で顔を見合わせながらも、それぞれの持ち場で観測準備を整えるしかなかった。




スイッチが入れられ、装置が静かに駆動を始める。

ヘルメットが淡い光を放ち、ダイスケは目を閉じて瞑想するような姿勢をとった。



「う、うむ…何かが見える…宇宙の創生の光景か…いや、これは…」



ダイスケが呻き声を上げた。レイカとアキラは固唾をのんで見守る。

次の瞬間、ダイスケの口から飛び出したのは、宇宙の真理ではなかった。



「…まんま…まんまー…」



まるで赤ん坊のような、意味不明の言葉だった。



「博士?」


「給食のプリン、ぼくが食べました…ごめんなさい、スズキくん…」



小学生時代の罪の告白が続く。


どうやら、反重力パルスが引き出したのは、宇宙の記憶ではなく、ダイスケ本人の封印された(そして、どうでもいい)過去の記憶だったようだ。


レイカは額に手を当て、天を仰いだ。



「私の貴重な研究時間を返してほしいわ…」



アキラは、笑っていいのか心配していいのか分からず、引きつった笑顔を浮かべていた。





実験は、壮大なスケールの無駄骨に終わったかに見えた。

レイカが「もうやめさせなさい!」と装置の停止を指示しようとした、その時。


ダイスケが、それまでとは全く違う、静かで、どこか遠くを見るような声で呟いた。



「…ああ、思い出した。この感覚…この微かなノイズは…違う。小脳じゃない…もっと奥だ…脳の深部、『淡蒼球』が、かすかな信号を受信している…まるで、遠い昔に聞いた、誰かの『声』のように…」



その言葉に、レイカとアキラは凍りついた。


ダイスケのいつもの根拠のない妄想とは違う、何か得体のしれないものに触れてしまったかのような、ぞくりとする感覚。


ダイスケの言う「淡蒼球」とは何か。そして、「誰かの声」とは。




反重力がこじ開けたのは、ただのパンドラの箱か、それとも、人間の意識という内なる宇宙への、新たな扉なのか。




物語は、さらに予測不能な領域へと足を踏み入れていく。

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