第56話:賢者の贖罪

 フェリクスの告白により、マグヌスの悪事が完全に暴かれた議場。

 崩れ落ちたマグヌスを衛兵が取り囲む中、突然、関係者席から静かに立ち上がる人影があった。

 テオ・グライフ。

 白髭をたくわえた温和な老人。リリアナの師匠として、これまで静かに見守り続けてきた男である。

 しかし、この瞬間の彼には、普段とは全く異なる重厚な威厳が漂っていた。まるで、長い間封印していた何かが、ついに解き放たれようとしているかのように。

 「市長」

 テオの声が議場に響いた。それは普段の穏やかな口調とは違う、深い権威を帯びた声だった。

 「私にも、証言をさせていただきたい」

 議場がざわめいた。この期に及んで、老師匠が何を語ろうというのか。

 「最後の真実を、この場で明かさねばならん」

 テオの言葉に、何か重大な秘密を感じ取った人々は、固唾を飲んで彼を見つめた。

 ***

 市長は困惑しながらも頷いた。

 「証言を許可いたします。テオ・グライフ氏、証言台へ」

 テオは関係者席を立ち上がった。その時、リリアナは師匠の表情に、これまで見たことのない深い悲しみと決意を見て取った。

 「師匠…?」

 リリアナが不安そうに声をかけたが、テオは振り返らなかった。

 重い足音を響かせながら、老人は証言台への道を歩む。その背中には、長年背負い続けてきた重荷の重さが現れていた。

 議場の全ての人が、息を呑んで見守っている。

 何かが起ころうとしている。何か、決定的なことが。

 ***

 証言台に立ったテオは、しばらく議場を見回した。

 数百人の視線が彼に向けられている。その中には、愛弟子であるリリアナの困惑した顔もある。

 「市民の皆様」

 テオが口を開くと、議場が静まり返った。

 「私は、テオ・グライフ。現在はリーフェンブルクに住む、一介の隠居老人でございます」

 彼の声は静かだったが、どこか威厳に満ちていた。

 「しかし、かつては別の名で呼ばれておりました」

 テオは深く息を吸い込んだ。

 「テオドール・グライフェンベルク。王都王立錬金術院の院長、そして大陸最高位の『理の錬金術』の大家」

 議場が一瞬にして静寂に包まれた。

 王立錬金術院院長。それは、大陸で最も権威ある錬金術師の地位だった。

 「そして…」

 テオの声が重くなった。

 「五百年前の『灰色の災厄』を引き起こした、主犯格の一人でもございます」

 ***

 議場が騒然となった。

 灰色の災厄。大陸史上最悪の錬金術事故。大陸中央部を不毛の地に変えた、未曾有の大惨事。

 その首謀者が、この温和な老人だったというのか。

 「嘘だろう…」

 「そんなはずが…」

 人々の驚愕の声が議場に響く中、テオは静かに語り続けた。

 「五百年前、私は『理の錬金術』の究極形を追求しておりました」

 彼の声には、深い後悔が込められていた。

 「物質の完全な分解と再構築。究極の物質『賢者の石』の創造。それこそが錬金術の最高到達点だと信じて疑いませんでした」

 テオは遠い目をした。

 「効率を追求し、論理を重視し、感情を排除する。それが『理の錬金術』の神髄だと考えておりました」

 「しかし、その果てに待っていたのは…」

 テオの声が震えた。

 「破滅でした」

 ***

 「『賢者の石』の錬成実験において、私たちは決定的な過ちを犯しました」

 テオは苦痛に満ちた表情で語った。

 「物質から『心』を完全に抜き取ったのです」

 議場の人々が、恐怖に身を震わせた。

 「心を失った物質は暴走し、周囲のあらゆるものを巻き込んで崩壊していきました」

 「大地は灰と化し、植物は枯れ果て、動物たちは姿を消しました」

 テオの声に、消えることのない罪悪感が滲んでいた。

 「数万の人々が故郷を失い、数千の人々が命を落としました」

 「すべて、私の傲慢が招いた惨事でした」

 リリアナが息を呑んだ。優しい師匠が、そんな過去を背負っていたなんて。

 「そして、その実験に参加していた弟子の一人が…」

 テオは議場の後方を見据えた。

 「マグヌス・フォン・ヴァイスでした」

 ***

 崩れ落ちたマグヌスの顔が青ざめた。

 「私はマグヌスに、『理の錬金術』の極致を教えました」

 テオの声は悲痛だった。

 「効率を追求し、感情を排除し、利益を最優先とする。そのような錬金術を」

 「その結果が、今日皆様が目撃された、あの邪悪な姿でした」

 テオは深々と頭を下げた。

 「弟子の罪は、師の罪でもございます」

 議場に重い沈黙が流れた。

 「『灰色の災厄』の後、私は全てを悟りました」

 テオは顔を上げた。

 「心を失った技術は、必ず破滅を招く。人への愛情なき知識は、災いしかもたらさない」

 「だからこそ、私は王都を去り、権威を捨て、この美しい街にやってきたのです」

 ***

 「そして、運命的な出会いがありました」

 テオの声が温かくなった。

 「一人の少女との出会いです」

 リリアナが驚いた表情を見せた。

 「彼女は私の工房の扉を叩き、こう言いました」

 テオは微笑んだ。

 「『錬金術で、人を笑顔にしたいんです』」

 議場の人々が、深く聞き入っている。

 「その時、私は確信しました」

 テオの瞳に涙が浮かんだ。

 「この少女こそが、私の探し求めていた希望だと」

 「技術ではなく心を重視し、効率ではなく愛情を大切にし、利益ではなく人々の幸せを追求する」

 「真の錬金術師だと」

 リリアナの頬に涙が流れた。

 「私は彼女に『情の錬金術』を教えました」

 テオの声に深い愛情が込められていた。

 「しかし、実際には私の方が教えられていたのです」

 「錬金術の本当の意味を。技術の真の価値を。そして、人として生きることの尊さを」

 ***

 テオは懐から、古い手紙を取り出した。

 「これは、リリアナの両親からの手紙です」

 リリアナが息を呑んだ。

 「『あの子を、どうか"あちら側"に行かせないでください』」

 テオは手紙の一文を読み上げた。

 「両親は知っていたのです。錬金術の道の危険性を。『理の錬金術』の行き着く先を」

 彼は手紙を胸に抱いた。

 「だからこそ、私は誓いました」

 「決して、彼女を私と同じ道に歩ませはしないと」

 「心ある技術を、愛ある錬金術を教え、人を幸せにする真の錬金術師に育てると」

 テオは議場の人々を見回した。

 「今日、皆様が目撃されたセレナ川の奇跡」

 「それこそが、私の贖罪の証です」

 ***

 「私は五百年前、心なき技術で大地を荒廃させました」

 テオの声が力強くなった。

 「しかし、私の愛弟子は、心ある技術で川を蘇らせました」

 「私は多くの人を不幸にしました」

 「しかし、私の愛弟子は、多くの人を幸せにしました」

 テオはリリアナを見つめた。

 「これが、私の求めていた贖罪の形です」

 議場が感動の静寂に包まれた。

 「『理の錬金術』の時代は終わりました」

 テオは確信を込めて宣言した。

 「これからは『情の錬金術』の時代です」

 「技術と心が調和し、知識と愛情が結ばれ、すべての人が幸せになれる錬金術の時代が始まるのです」

 老賢者の最後の言葉が、議場に響き渡った。

 長い贖罪の旅路が、ついに終わりを告げた瞬間だった。

 そして、新しい希望の物語が、今まさに始まろうとしていた。

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