第36話:師の沈黙

 夕暮れの工房に、重い静寂が流れていた。

 リリアナは作業台の向かい側に座り、テオの穏やかな顔を見つめている。いつものように、師匠はパイプをくゆらせながら、夕食の準備をしていた。

 しかし、今日のリリアナは違った。禁書庫で見つけた文献が、彼女の心に重くのしかかっている。

「師匠」

 意を決して、リリアナは口を開いた。

「お聞きしたいことがあります」

 テオの手が、一瞬止まった。パイプから立ち上る煙が、ゆらゆらと天井に向かって漂っている。

「何かね、リリアナ」

 いつもと変わらぬ、優しい声だった。しかし、リリアナには分かった。師匠の肩に、微かな緊張が走ったことを。

「『灰色の災厄』について、教えてください」

  *** 

 その瞬間、工房の空気が凍りついた。

 テオの表情が、リリアナが今まで見たことがないほど険しく変わった。温和な老人の仮面が剥がれ落ち、その下から重い過去を背負った男の顔が現れる。

 パイプを置く手が、わずかに震えている。

「リリアナ…どこでその名前を?」

 声が低く、重い。まるで、封印された記憶の扉を開くのを恐れているかのようだった。

「図書館の禁書庫で、ある文献を見つけました」

 リリアナは正直に答えた。

「『心に響く錬成の技法』という書物です。著者は…テオドール・グライフ」

 テオの瞳が、一瞬大きく見開かれた。

  *** 

 長い沈黙が続いた。

 テオは立ち上がると、工房の窓辺に歩み寄った。セレナ川のせせらぎが、静寂を優しく包んでいる。しかし、その音すら今は遠く感じられた。

「それは…」

 テオの背中が語りかける。

「知れば、二度と後戻りできなくなる真実だ」

 リリアナは息を呑んだ。師匠の声に宿る重さが、禁書庫で読んだ恐ろしい記述の真実味を物語っていた。

「師匠…あなたは、あの災厄に…」

「関わっていた」

 テオが振り返った。その顔には、五百年分の後悔と悲しみが刻まれている。

「ワシも、あの愚かしい実験の一員だった」

  *** 

 リリアナの心臓が、激しく鼓動した。

 師匠が、あの恐ろしい災厄を引き起こした張本人の一人だったなんて。優しく錬金術を教えてくれた、この穏やかな老人が。

「師匠…」

「詳しくは話せん」

 テオが手を上げて、リリアナの言葉を制した。

「君を、危険に晒したくないのだ」

 工房の中を歩きながら、テオは続けた。

「『灰色の災厄』は、単なる事故ではなかった。あれは、人間の傲慢が生み出した地獄そのものだった」

 窓辺に戻ると、夕日に染まるセレナ川を見つめる。

「緑豊かな大地が、一夜にして死の荒野に変わった。清らかな川は毒の流れとなり、生き物たちは絶望の声を上げながら息絶えていった」

  *** 

 テオの声が震えていた。

「そして、ワシたちは最後まで認めようとしなかった。自分たちの理論が間違っていたなどと」

 拳を握りしめる。

「『心』などという曖昧なものは、錬金術の純粋性を汚す不純物だと。そう信じ込んでいた」

 リリアナは立ち上がり、師匠に近づこうとした。しかし、テオは背中を向けたまま手を振った。

「来てはいけない、リリアナ」

 その声には、深い痛みが込められていた。

「ワシは、君の両親に約束したのだ。君を、あちら側の世界に行かせないと」

「両親に?」

 リリアナの眉がひそめられた。故郷を出る時、両親は錬金術師になることを最後まで反対していた。その理由が、ようやく見えてきた。

  *** 

「君の両親は知っていたのだ。ワシの正体を」

 テオが振り返った。その瞳には、深い後悔の色が宿っている。

「『灰色の災厄』を引き起こした元凶の一人であることを。そして、その力がどれほど危険なものかを」

 工房の中央に戻ってくると、テオはリリアナの前にひざまずいた。

「すまない、リリアナ。ワシは君を欺いていた」

「師匠…」

「君は優しすぎる。純粋すぎる。だからこそ、あの暗い世界に足を踏み入れてほしくなかった」

 テオの目に、涙が浮かんでいた。

「だが、結果的に君を危険に晒してしまった。許してくれとは言わない。ただ…」

  *** 

 リリアナは師匠の前にしゃがみ込んだ。

「師匠、顔を上げてください」

 テオが顔を上げると、リリアナの瞳にも涙が光っていた。

「私は…まだよく分からないことばかりです。でも、一つだけ確かなことがあります」

 リリアナの手が、テオの頬に触れた。

「師匠が私に教えてくださった錬金術は、間違っていません。人を幸せにする、温かい力です」

「リリアナ…」

「過去に何があったとしても、今の師匠は、私にとって大切な人です」

 テオの目から、大粒の涙が溢れた。

「ありがとう…ありがとう、リリアナ」

  *** 

 しかし、リリアナは同時に理解していた。

 師匠が抱えている秘密は、自分の想像をはるかに超える重いものだということを。そして、それ以上を知ろうとすることは、師匠をさらに苦しめることになるということを。

「師匠、無理に話さなくて結構です」

 リリアナは静かに立ち上がった。

「今は、目の前のことに集中します。公聴会で、私の信じる錬金術を証明してみせます」

 テオも立ち上がり、深く頷いた。

「君なら、きっとできる。ワシが長い年月をかけても見つけられなかった答えを、君が示してくれるかもしれない」

 夕日が工房を優しく染めている。師弟の絆は、真実の重みによって、より深く、より複雑なものになっていた。

  *** 

 その夜、リリアナが自室に引き上げた後、テオは一人工房に残っていた。

 古い机の引き出しから、折り目のついた手紙を取り出す。それは、リリアナの両親からの手紙だった。

 震える手で封を開き、見慣れた文字を読み返す。

『テオドール様。娘のことを、どうぞよろしくお願いいたします。しかし、一つだけお願いがございます。あの子を、どうか"あちら側"に行かせないでください』

 手紙を胸に抱き、テオは天井を見上げた。

「すまない…リリアナの父上、母上。ワシは…」

 約束を守れなかった。

 リリアナは、確実に「あちら側」へと歩み始めている。自分と同じ、重い運命を背負う世界へと。

 それを止めることは、もはやできそうになかった。

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