第35話:禁書庫のヒント

 市立図書館の高い天井には、午後の陽光が長いカーテンのように降り注いでいた。

 リリアナは一番奥の閲覧席で、錬金術に関する古い書物と格闘していた。彼女の前には、すでに十数冊の本が積み上げられている。

「『物質変換の基礎理論』『マナ循環学概論』『賢者の石に関する諸説』…」

 一冊ずつ丁寧にページをめくりながら、リリアナは自分の錬金術の理論的裏付けを探していた。公聴会で自分の正当性を証明するには、感情論だけでは足りない。しっかりとした学術的根拠が必要だった。

 しかし、どの書物も「理の錬金術」の観点から書かれたものばかり。効率と論理を重視し、使う者の心に寄り添う「情の錬金術」については、ほとんど触れられていない。

「やはり、古い文献にあたる必要があるか…」

 リリアナがため息をついた時、背後から静かな足音が聞こえてきた。

  *** 

「また来ましたね」

 振り返ると、気難しいエルフの司書エリオットが立っていた。長い銀髪を後ろで束ね、鋭い翡翠色の瞳がリリアナを見下ろしている。

「エリオット司書…すみません、席を独占してしまって」

「構いません。熱心な探求者を邪魔立てするつもりはありませんから」

 エリオットの口調は相変わらず素っ気ないが、そこには以前のような冷たさはなかった。

「ただ、あなたが求めているものは、この開架書庫にはないでしょう」

 リリアナが顔を上げる。

「と、言いますと?」

「『情の錬金術』に関する文献をお探しなのでしょう?」

 エリオットの言葉に、リリアナは驚いた。自分の探求内容を、どうして見抜かれたのだろう。

「私は三百年以上、この図書館で本と向き合ってきました。研究者の求める知識の方向性くらい、見ればわかります」

  *** 

 エリオットは周囲を見回した。他に人影はない。午後の図書館は、いつも静寂に包まれている。

「ついてきなさい」

 短く告げると、司書は図書館の奥へと歩き出した。リリアナは慌てて本を片付けて後を追う。

 エリオットが向かったのは、普段は立ち入り禁止の「特別書庫」だった。重厚な木製の扉の前で、彼は古い鍵を取り出す。

「この先は禁書庫です。通常、一般市民の立ち入りは許可されていません」

 鍵が回る音が、静寂を破った。

「しかし、あなたのひたむきな探求心に免じて、特別に許可しましょう」

 扉がゆっくりと開かれる。中から、古い羊皮紙とインクの匂いが漂ってきた。

「ただし、見たものを外部に漏らすことは厳禁。約束できますか?」

 リリアナは強く頷いた。

「はい。お約束します」

  *** 

 禁書庫は、想像以上に荘厳な空間だった。

 高い天井まで続く本棚が、まるで大聖堂の柱のように並んでいる。数千冊、いや数万冊の書物が、静かに眠っている。その多くは、手写本や非常に古い印刷物だった。

「これらの書物は、錬金術師ギルドによって『危険思想』として封印されたものです」

 エリオットが、ランプに火を灯しながら説明する。

「主に『情の錬金術』に関する文献や、ギルドの公式見解に反する学説を記したものですね」

 リリアナの心臓が高鳴った。ここに、自分の求める答えがあるかもしれない。

「特にこちらの棚は」

 エリオットが案内したのは、奥の一角だった。

「古代の錬金術師たちが残した、『情の錬金術』の原典とも言える文献が収められています」

  *** 

 リリアナは慎重に、一冊の古い書物を手に取った。『心に響く錬成の技法』という題名が、金の文字で表紙に刻まれている。

 ページを開くと、美しい手描きの挿絵と共に、古い文字で錬金術の理論が記されていた。

「『真の錬金術とは、物質の変換にあらず。使う者の心と、作られる物との調和にこそ、その本質は宿る』…」

 リリアナが音読すると、その言葉が禁書庫に静かに響いた。

「これです…これこそ、私が求めていた理論です」

 興奮を抑えきれず、リリアナは次々とページをめくっていく。そこには、現代の「理の錬金術」では否定された、心の力を重視する技法が詳細に記されていた。

 しかし、ある章を開いた時、リリアナの表情が一変した。

「『灰色の災厄』について…」

 そのページには、恐ろしい記述があった。

  *** 

「『大陸暦九八三年、理の錬金術を極めんとした大錬金術師たちが、究極の錬成を試みた。彼らは効率のみを追求し、物質から心を完全に切り離すことで、史上最強の錬金術を生み出そうとした』」

 リリアナの声が震えた。

「『しかし、心を失った物質は暴走し、大地そのものを蝕み始めた。緑豊かな森は灰色の砂漠と化し、清らかな川は毒の流れとなった。これが後に「灰色の災厄」と呼ばれる、錬金術史上最大の悲劇である』」

 ページをめくると、さらに恐ろしい記述が続いていた。

「『災厄を引き起こした錬金術師たちは、最後まで自らの過ちを認めようとしなかった。彼らは言った。「我々の理論は正しい。失敗の原因は、不純物である心が混入したからだ」と』」

 エリオットが、リリアナの震える手を見つめている。

「これが、現在の錬金術師ギルドが『情の錬金術』を危険視する理由です。『灰色の災厄』の記憶を語り継ぎ、心を重視する錬金術を『災いの種』として封印してきたのです」

  *** 

 リリアナの脳裏に、金獅子商会の模倣品が浮かんだ。

 心を込めて作られたオリジナルとは違い、効率と利益のみを追求した粗雑な作り。使う者の気持ちなど、まったく考慮されていない冷たい道具。

「まさか…」

 リリアナの顔が青ざめた。

「金獅子商会の模倣品は、小さな『灰色の災厄』なのでは…」

 心を抜き取られた錬金術が、街に小さな破綻をもたらしている。火事は、その始まりに過ぎないのかもしれない。

 このまま模倣品が広まれば、リーフェンブルクにも、あの恐ろしい災厄が再び訪れるかもしれない。

「エリオット司書」

 リリアナが振り返った。

「この文献を書いたのは、どなたですか?」

 エリオットは、書物の最後のページを開いた。そこに、著者名が記されている。

「テオドール・グライフ…著」

 リリアナの心臓が、止まりそうになった。

  *** 

 師匠のテオの本名は、テオドール・グライフ。

 そして、この文献の著者名も、まったく同じだった。

「師匠が…『灰色の災厄』について書いた文献?」

 リリアナの手が震えた。

 師匠は、あの恐ろしい災厄の真相を知っている。いや、もしかすると…

「師匠も、災厄に関わっていたのか?」

 禁書庫の静寂の中で、リリアナの呟きが小さく響いた。

 すべての謎が、師匠テオに繋がっている。

 彼はなぜ王都を去ったのか。なぜリーフェンブルクで隠遁生活を送っているのか。

 そして、なぜ『情の錬金術』を彼女に教えたのか。

 真実への扉が、今まさに開かれようとしていた。

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